上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--年--月--日 | | | スポンサー広告 | Top↑ |
 チャイナ・ミエヴィル『都市と都市』(日暮雅通訳 ハヤカワ文庫)
 ヨーロッパにあるふたつの都市国家ベジェルとウル・コーマの間で起こった殺人事件を巡るミステリーとSFの間の小説。
 ほぼ現代の話ですが設定はもちろん架空。
 当然ベルリンやエルサレムや朝鮮半島などを想像しながら読んでいくと、設定はもっと奇妙なことになっています。
 二つの国家はほとんど同じ位置にあり、領土は入り組み折り重なっている。
 しかしベジェル人はウル・コーマ人のそばを物理的にすれ違ったとしてもその姿は「見えない」。
 正確に言うと見ないように厳しく訓練されてきているのです。
 見てはいけない。
 もちろんウル・コーマ人もそう。
 建物も見てはいけない。
 その禁を破る侵犯行為は「ブリーチ行為」と呼ばれ、両国家の上位に立つような組織「ブリーチ」が処罰し、その行為を消し去る。
 ブリーチ行為には両国の政府、警察は手は出せない。
 ブリーチという組織は神の比喩か、と読み進めながら思ったりしました。
 解説で大森望さんがおっしゃるように「裸の王様」のお話ですが、強引な設定なのにそのうち実在するように思わせるのがすごい。
 それぞれの国のお国柄や歴史、生活感などをきちんと描いています。
 国家自体についての話をこんなふうに書く手法があったとは驚きました。
 ストーリーは、警部補=私が事件の謎を追えばまた謎が現れ、と引っ張っていきます。
 ミステリーなので当然解決があるわけですが、最後は何となくありがちな大団円という気がしました。
 私としては事件は置いといても、もっと二つの国の話を続けてほしかった気がします。
都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)
(2011/12/20)
チャイナ・ミエヴィル

商品詳細を見る
2012年01月31日 | | TrackBack:0 | | | Top↑ |
 ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル』1~4(宮下志朗訳 ちくま文庫)
 桑野隆『バフチン』、バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』と読んできてのラブレーだったが、実際読んだらすごかった。
 もちろんこういう順序で読んでよかったとは思うが、いきなり読んでも楽しい。
 物語の時系列は1『ガルガンチュア』2『パンタグリュエル』3『第三の書』4『第四の書』となっているのだが、執筆は2、1、3、4の順だそうである。どうしようか考えたが、訳されている宮下さんが「興味深い体験になるに違いない」とおっしゃるとおり執筆順に読んでみた。たぶんそれもよかった。
『パンタグリュエル』は展開もいいし、エピソードはお下劣の嵐。おしっこで敵の軍勢を溺死させるわ、性欲の塊のような道化的役割パニュルジュはむちゃくちゃやるし。というか、パニュルジュがいいんだよなあ。村上春樹の「牛河さん」の先祖。
 もちろん『ガルガンチュア』だってお下劣であることはまちがいない。ただパニュルジュがいないのが弱いところ。後半修道士ジャンが登場してぐっと面白くなるけど。
『第三の書』になると、1、2での物語の推進力だった戦争がなくなる。その代わりとなるのが登場人物たちの議論、会話。『対話篇』ぽいが、中身はパニュルジュが結婚したいんだが寝取られ男にはなりたくないし・・・というような他愛のないテーマ。しかしそこに聖書やら古典やら当時の政治状況やらが引用されまくっていて高密度。宮下さんの注釈も勢い多くならざるを得ない。たまきんブラゾン(たまきんカタログ)は延々続くし。で、話はなぜかパンタグリュエリヨン草という架空の植物の説明で終わってしまう。
『第四の書』ではパンタグリュエル一行が「聖なる酒びん」の神託を求めて大航海に出る。奇妙の島々を訪れ、時には戦い、飲んで食べる。当時の政治、宗教情勢に対するラブレーの怒りなどが表れていて、教会を徹底的に批判し笑いのめす。結局航海の目的は忘れ去られて、パニュルジュがうんちまみれになって話は終わる。
 とにかく作者は予定調和はなく、ひたすらまじめくさったこと、決まり切ったことからずれていこうとする。最初の二巻はまだ騎士道物語という枠組みがあったが、『第三の書』以降は物語を否定しようという力が強くなってくる。前衛さで現代文学はこれに追いついているのだろうか、と思うほどむちゃくちゃやっている。
 しかし何よりラブレーは読者のために面白く、そして読者の期待を裏切るように楽しく書いたんだろうな。
 そしてバフチンがいうように中世の民衆の祝祭空間、笑いの文化をラブレーは完全に理解していたから様々なテクニックを使いこなせた。
 どんなときにおいても深刻にならず、深刻になった瞬間笑い飛ばされる。
 こういうのはもっと若い頃に読んでおくべきだったのだが、私はどうしても渡辺一夫の訳が苦手で読めなかったのでした。 
 宮下さんの訳だと、ほんとに現代小説を読んでいるみたい(ある種の現代小説の方が古くさい)。 
 注釈も楽しいし、とにかく読みやすい。
 なお、『第五の書』も存在はするが、贋作が疑われるし、文学的には拙い作品とのことで、別巻として扱うとのことです。
 
ガルガンチュア―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈1〉 (ちくま文庫)ガルガンチュア―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈1〉 (ちくま文庫)
(2005/01)
フランソワ ラブレー

商品詳細を見る
パンタグリュエル―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈2〉 (ちくま文庫)パンタグリュエル―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈2〉 (ちくま文庫)
(2006/02)
フランソワ ラブレー

商品詳細を見る
第三の書―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈3〉 (ちくま文庫)第三の書―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈3〉 (ちくま文庫)
(2007/09/10)
フランソワ ラブレー

商品詳細を見る
ガルガンチュアとパンタグリュエル〈4〉第四の書 (ちくま文庫)ガルガンチュアとパンタグリュエル〈4〉第四の書 (ちくま文庫)
(2009/11/10)
フランソワ ラブレー

商品詳細を見る

2012年01月28日 | | TrackBack:0 | | | Top↑ |

『さよなら、愛しい人』レイモンド・チャンドラー 村上春樹訳(ハヤカワ文庫)

大昔に清水俊二訳『さらば愛しき人よ』を読んだが、大鹿マロイという登場人物が大暴れをする活劇のような小説、というような記憶のみがあった。

まったく違った。

『砂の器』みたいな話である。

今回の訳では「へら鹿マロイ」とされるとんでもない大男は、実際にはこの小説ではほとんど出てこない。

強烈なキャラクターなので、作者としたらもっともっと使いたくなりそうなものだ。

それをしないのがプロの書き手である。

だからこそマロイは深く心に刻まれたのだ。

フィリップ・マーロウが麻薬を打たれて幻覚と戦う場面は、村上春樹の例えば『ねじまき鳥クロニクル』での井戸の場面を連想させる。

徹底的に叩きのめされて、そこから復活してくる描写は読者をも元気にさせる。

比喩や会話に加えて、そんなことも村上はチャンドラーから学んだのではないか。

さよなら、愛しい人 (ハヤカワ・ミステリ文庫)さよなら、愛しい人 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
(2011/06/05)
レイモンド チャンドラー

商品詳細を見る
2011年08月22日 | Comment:0 | | 未分類 | Top↑ |
『この世の王国』アレホ・カルペンティエル(水声社)
 同じ南米の文学として一括りにするには、ガルシア=マルケスとは少し違う。猥雑さみたいなものがあまりない分読みやすい。
 ちょうど中東での革命的な事件が起きている中これを読むと、支配者が倒れていく様が二重写しになってくる。人間はやっていることはずっと変わらない。
 ハイチが舞台で、史実をもとに白人支配、フランス革命の影響で黒人が支配し、そしてその圧政が倒されていく、という話を黒人奴隷だったティ・ノエルを狂言回しにして書いている。
 人が鳥になったり、牛になったり、いろんなことが起きる。それが普通の話と地続きに書かれているが、そんなことがあっても良かろう、と思う。マジックリアリズムである。
 殺し合い、人を支配しようとすることを繰り返す人間の愚かさをみてきたティ・ノエルは人間になっているよりもまし、と虫にも動物にもなれる能力を持つのだが、いろいろ変身した上で、人間について肯定的な思いに至る。

 人間の偉大さは、現状をよりよいものにして行こうとする点、つまり、自分自身に義務を課していく点にある。天上の王国には、征服して手に入れるべき偉大なものが欠けている。というのも、そこでは、きちんと位階が定められ、未知のものが明らかにされ、永生が約束され、犠牲的精神など考えられず、広く安らぎと愉楽が支配しているからである。さまざまな悲しみと義務に苦しめられ、貧困にあえぎながらも気高さを保ち、逆境にあっても人を愛することのできる人間だけが、この世の王国においてこのうえなく偉大なものを、至高のものを見出すことができる。(p152)
 かなりストレートな言葉だが、ここまで読んでくると説得力を感じる。
 小説の時間のスピード感が私に合っていて、心地いい読書だった。
この世の王国 (叢書 アンデスの風)この世の王国 (叢書 アンデスの風)
(1992/07)
アレホ カルペンティエル

商品詳細を見る
 

 
2011年02月27日 | | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『夜戦と永遠』佐々木中(以文社)
 本としてはかなりの価格だし、相当難しそうだし、と購入に二の足を踏んでいたが、『切り取れ、あの祈る手を』を読んでしまった以上手を出さないわけにはいかなかった。
 まず、最初に私は今の段階でこの本について要約したり、説明したりすることはできない、ということを書いておく。
 本を読んだ、というよりは、ただページを繰り続けただけなのだ。
 分からない言葉、少しは理解しうる言葉をごちゃ混ぜにしながら私の中を通過していった。
 おそらく、もっと丁寧に読めばそれほど難しいことが書かれているわけではないと思う。
 ラカンもフーコーもまるでわかっていない私のような者にも精密に説明をしてくれている。
 私は難しい本を読むときはだいたい線を引いたり書き込みをする。
 しかし今回はあえてそれをしなかった。
 たぶんこの本は何度も読まなくてはいけない、と思ったから。
 最初は文体のスピードを味わうだけにしよう、と決めたのだ。
 命がけで本を読むべしと言う佐々木さんにはたぶん怒られるとは思うが、まずこの文体を味わうことにしたかったのだ。
 とは言ったものの、たぶん途中でわけが分からなくなって挫折するとどこかで思っていた。
 しかし、なぜなのか、結局最後までページをめくり続けることができてしまった。
 いったい何なのか。この文章の力は。
 こういう経験は初めてだった気がする。
 こんな分厚い本を内容をほとんど理解できないまま読み続けるというのはいったいどういうことか。
 ページをめくりながら、えらく重要なことが書かれていて、しかもそれは私にとってプラスとなることなのだ、というよくわからない気持ちがどんどんふくれていったのだ。
 とにかく、私はなにも分からないことがよく分かった。
 それでも私は何かひどく興奮している。
 とにかく、いつかきちんともう一度読み込みたい。
夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル
(2008/11/07)
佐々木 中

商品詳細を見る

 
 
 
2011年02月13日 | | TrackBack:0 | | 未分類 | Top↑ |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。