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『この世の王国』アレホ・カルペンティエル(水声社)
 同じ南米の文学として一括りにするには、ガルシア=マルケスとは少し違う。猥雑さみたいなものがあまりない分読みやすい。
 ちょうど中東での革命的な事件が起きている中これを読むと、支配者が倒れていく様が二重写しになってくる。人間はやっていることはずっと変わらない。
 ハイチが舞台で、史実をもとに白人支配、フランス革命の影響で黒人が支配し、そしてその圧政が倒されていく、という話を黒人奴隷だったティ・ノエルを狂言回しにして書いている。
 人が鳥になったり、牛になったり、いろんなことが起きる。それが普通の話と地続きに書かれているが、そんなことがあっても良かろう、と思う。マジックリアリズムである。
 殺し合い、人を支配しようとすることを繰り返す人間の愚かさをみてきたティ・ノエルは人間になっているよりもまし、と虫にも動物にもなれる能力を持つのだが、いろいろ変身した上で、人間について肯定的な思いに至る。

 人間の偉大さは、現状をよりよいものにして行こうとする点、つまり、自分自身に義務を課していく点にある。天上の王国には、征服して手に入れるべき偉大なものが欠けている。というのも、そこでは、きちんと位階が定められ、未知のものが明らかにされ、永生が約束され、犠牲的精神など考えられず、広く安らぎと愉楽が支配しているからである。さまざまな悲しみと義務に苦しめられ、貧困にあえぎながらも気高さを保ち、逆境にあっても人を愛することのできる人間だけが、この世の王国においてこのうえなく偉大なものを、至高のものを見出すことができる。(p152)
 かなりストレートな言葉だが、ここまで読んでくると説得力を感じる。
 小説の時間のスピード感が私に合っていて、心地いい読書だった。
この世の王国 (叢書 アンデスの風)この世の王国 (叢書 アンデスの風)
(1992/07)
アレホ カルペンティエル

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2011年02月27日 | | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『古事記を読みなおす』
 古事記については以前橋本治訳のものを読んだことがある。
 また、本書の著者による『口語訳古事記』も買ってあるが、まだ読んでいない。
 戦後の教育を受けている者としては神話についての常識がなさ過ぎることを痛感している。
 あまりにも敗戦による反動が大きすぎたのだろう。
 今さらだが、何回か古事記を私の身体に入れてやる必要がある。
 人がどこから現れ、死後どこへ向かうのか、というアポリアについて最初に回答を与えたのが神話であり、次に宗教が現れたと、竹田青嗣も何かの本で言っていた(その後が哲学)。
 日本の神話についてきちんと知っておくことは、これから徐々に衰えていく自分自身の人生について考えていく上でも参考となるはずである。後付けだが。
 さて、そもそも古事記と日本書紀の関係についてよくわかっていなかった。
 古事記の方が面白そうで、日本書紀の方は堅苦しい、みたいなイメージ程度しか持ってない。
 この本で、出雲神話についてきちんと書かれている古事記に対して、日本書紀では出雲神話についてはほとんど触れられていないと言うことを初めて知った。
 橋本訳で古事記を読んだ際、出雲神話は実際のどのような事件をもとに書かれたのだろう、と空想していたのだが、「出雲神話が律令国家の手になる机上の神話だという津田左右吉以来の認識は間違っていると私は考えています」(p55)とあるので少しびっくりし、出雲神話が机上の神話だ、という常識すら知らなかった自分にがっかりもした。
 トロイとシュリーマンの話にあるように、神話というのはそんなに嘘話だけではないと思っていたので(シュリーマンが若干怪しげな男だったのはまた別の話)。
 出雲神話をある程度事実を反映した話だと考える立場の著者はこのように考える。

 歴史的な事実は度外視して言いますが、出雲の神々の活躍を語る神話と出雲の神々の系譜とを用いて古事記が語ろうとしたのは、出雲世界の強大さだと思います。もっと言えば、地上を最初に支配したのは出雲の神々であったと言うことが主張されているとしか読めません。(p61)


 過去を羅列する古事記に対して、日本書紀は、国家の時間軸の上に過去を並べ替えていったのです。(中略)古事記と日本書紀との、こうした歴史認識の違いをもとに考えると、律令制古代国家の正史であろうとする日本書紀にとって、古事記的な「出雲」は、過去の、棄てられた世界であったということになるはずです。つまり、律令国家にとっての出雲は、ヤマトを中心として整えられた五幾七道のなかの、山陰道に属する一つの国としてしか存在しないのです。(p74)

 つまり、古事記と日本書紀の間には成立過程、目的が異なるため、現時点の国家として歴史を作る立場から都合の悪い出雲については部分は日本書紀では端折られている、ということらしい。
 とても説得力のある見方だと思ったのだが、専門的に見るとどうなんだろう。
 私にはわからないが、やはり出雲神話は事実の反映だと思う方が面白く読めると思う。
 出雲神話だけではなく、古事記の終わりまでいくつかのトピックを取り出して読みやすく書かれているので、ある程度の全体像を得るにはかなりよい本である。
 ここから著者の口語訳などに入っていこう、と思う。
古事記を読みなおす (ちくま新書)古事記を読みなおす (ちくま新書)
(2010/11/10)
三浦 佑之

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2010年12月29日 | | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『道徳形而上学の基礎づけ』I・カント 宇都宮芳明訳(以文社)
 村上春樹の小説で主人公が『純粋理性批判』を読んでいるのを読んで以来、カントは読まなくてはいけないと思い、入門書やらは読んだことはあったもののhttp://thelonggoodbye.blog96.fc2.com/blog-entry-43.html、恥ずかしながら原典に初めて当たった。
 柄谷行人も竹田青嗣も加藤典洋もカントを重要視しているのも理由。
 カント哲学の初級編と言うことらしいこの本を手に取った。
 数学の証明のような構成である。
 粘り強く証明しようとし続ける。誰も証明したことのないことを何とか証明しなくてはいけない、という熱意。
 正直言って、証明がうまくいっているのかはよく分からない。
 しかし善と自由について必死に書かれた文章を読むと、今の時代にも明らかに通用することが分かり、多くの人たちがカントを引用するのも分かるというものである。
 
  善い意志は、それが引き起こしたり達成したりする事柄によって善いのでもなければ、それがなにかあらかじめ設定された目的の達成に役立つことによって善いのでもない。そうではなくて、善い意志はただ意欲することによって善い、つまりそれ自体において善いのであって、、この善い意志は、それだけをとりだしてみると、この意志がなんらかの傾向性の、いなそれどころかすべての傾向性全体の満足のためにもたらすかもしれない一切のものよりも比較を絶して高く評価されるべきなのである。(17 p27)

 このことについてカントはしつこいくらい証明をしようとする。今の時代ならばちょっと気の利いたことを特段裏付けもなく言っておけばそれなりに評価が得られるのだろうが、カントはとてもがんばる。そしてそのおかげで説得力を持つのだ。
 といいつつ、私は物事をどうしても単純化、俗化して考えないと理解できないので、ここは「結果よりプロセスが大事」とだいたい同じだろうと考えた。
 さて、この「善い意志」とはなにか。

 つまり私は、私の格率が普遍的法則となるべきことを私はまた意欲することができる、という仕方でのみふるまうべきである、ということになる。(31 p50)

 これまた俗化した私の理解では、どんな場所においても同じやり方でできる振る舞い方をしなさい、ということになる。「ぶれない」という言い方があるが、そこからさらに、考え方をじっくり吟味して誰もが時代を超えて正しいとする振る舞いをしなさい、といっていると思う。
 さて、最上の原理として、有名な次の文章が出てくる。

 汝の人格やほかのあらゆるひとの人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わないように行為せよ。(85 p129)

 人間は理性を使用し存在すること自体が目的なので、他の「もの」とは別である。「もの」については私がなにかの行為を達成するための手段として利用することはできるが、他の人を「もの」と同じように手段とだけ考えてはいけない、ということだと思う。
 改めて読んで、あらっと思ったら注解にもあったのだが、「カントは他人を手段として扱うことも認めるが、しかしその場合にも他人が同時に目的それ自体であることを無視してはならない」と言っている。こういうところが「カントは分かってるなあ」と思うところである。実際世の中で他人を手段、つまり道具みたいとして考えなくてはいけないときがある。それは認める。ただ、手段としてだけ考えちゃだめだぜ、他の人も人なんだから、と言っているのか。
 後半は自由についての議論で、私には結構難しかったけれども、感性界とか悟性界などカントの考え方の枠組みが書かれていて、これからカントを読むのには参考になる部分と思われる。 
 とにかくある程度がまんして読めばやけに今の自分に役に立つことが書いてあるので、おすすめできる。続々と出ている生き方指南本なんかより具体的に役立つ。
 いくつかの訳が出ているが、この本は訳者の注解が各項目ごとに書かれていて理解しやすいと思う。
道徳形而上学の基礎づけ [新装版]道徳形而上学の基礎づけ [新装版]
(2004/04/09)
イマヌエル カント

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2010年12月24日 | | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『世界史の構造』柄谷行人(岩波書店)
 柄谷行人の本は分からないなりにずうっと読んできた。
 この分厚い本は、今までよりもずうっとわかりやすく書かれている。
『マルクスその可能性の中心』『日本近代文学の起源』あたりを読んでいたときには、いったい私はどこに連れて行かれるんだろうというどきどき感とともに、それまで出会ったことのない考え方を見せられてきた。
 この本ももちろん同じようにわくわくして読めるのだが、最初に世界史を読み直すための分析の道具をきちんと説明してくれているのがわかりやすいところなのだろう。
 大きな道具というのは「交換様式」である。
 交換様式A→互酬(贈与-お返し)
 交換様式B→略取-再分配
 交換様式C→商品交換
 交換様式D→交換様式Aを高次元で回復する自由で同時に相互的な交換様式、実在しない
 それらによって、現在の世界、すなわち「資本=ネーション=ステート」がどのように成り立ってきたのか、ということを解きほぐす。
 人類の発祥から現在までを、交換様式で読み解いていくのだ。
 
 私がここで試みたいのは、異なる交換様式がそれぞれ形成する世界を考察するとともに、それらの複雑な結合としてある社会構成体の歴史的変遷をみること、さらに、いかにしてそれらを揚棄することが可能かを見届けることである。(p17)

 私は世界史がよくわからない。断片、すなわちいくつかの事件(「カノッサの屈辱」とか)は分かるのだが、それがどのような背景で生じたのか、ということが理解できない。残念ながら頭が悪いのだ。
 そんな私にこの本はマクロな視点、しかもたぶん今まではあまりなかったような視点から歴史を描き出してくれる。
 学生時代こんな教科書があったら世界史をもっと好きになっていただろう。
 もちろん、この本は交換様式の視点から世界史の構造を明らかにした上で、現代の資本主義、ナショナリズム、国家のきっちり連携した三つの環を壊すためにどうするか、ということが最大のテーマだ。
 つまり、革命はどのように成し遂げられるか。
 佐々木中がいうように、暴力革命なんて革命のうちの一方法に過ぎない。
 著者も過去の革命の失敗の理由を挙げながら、新しい革命について考える。
 この辺はおもしろいけど、私にはよく分からない。もう少し勉強が必要である。 
 ただ、この本がすごいのは世界史や革命だけでなく、宗教や哲学、とにかくいろんなことが書かれていて、テーマを構成する細部におもしろさを感じるところだ。その意味では小説的でもある。いろんなところに引用したい文章がちりばめられている。
 官僚制については、私たちの常識を転倒させるようにこんな風に書く。
 一方、国家の官僚制についていえば、ネオリベラリスト(リバタリアン)は、それを「民営化」あるいは「市場経済原理」によって解消すべきだと主張している。官僚制は非能率的であり、それを企業と同じ基準でやれば、能率が上がり、官僚は縮小されるだろうというのだ。しかし、民営化によって官僚制を解消できるという考えは欺瞞である。私企業そのものがすでに官僚制的なのだから。私企業が官庁よりも目的合理的にみえるのは、それが官僚制的でないからではない。何よりも、その「目的」が資本の自己増殖(利潤の最大化)という、明白かつ単純なものだからである。
 しかし、利潤という計算可能な目的をもたないか、あるいはもちえない領域にかかわる公的官僚に、そのような目的合理性を強制することはできない。ゆえに、公的官僚制だけが官僚制であると考え、それを民営化によって滅ぼせると考えるのはまちがいである。そのような目的合理性の強制によって生じるのは、官僚制の消滅ではなく、単にもっと徹底的に目的合理的となった官僚制なのである。(p268)

 こういうのを読んじゃうと、本のテーマとは別に、柄谷行人はやはりかっこいいと思ってしまうのである。
世界史の構造世界史の構造
(2010/06/25)
柄谷 行人

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2010年12月08日 | | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『切りとれ、あの祈る手を 〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』佐々木中(河出書房新社)
 興奮しながら読んでしまったので、いつもにましてうまく書けない。
 これはすばらしい本。
 とにかく読むしかない。
 説明は要らない。
 本や文学に興味があるのなら読んだほうが絶対に得だ。
 読んだ者は明らかに変わる。もしくは狂う。
 本は線だらけになってしまったが、そこからいくつか選んでみる。

 他人が書いたものなんて読めるわけがない。読めちゃったら気が狂ってしまうよ。

 本を読み、本を読み返すだけで、革命は可能だということになります。

 革命は暴力に還元されるものではありません。暴力が先行するのではない。まず根拠を明示したテクストが先行する。テクストの書き換えが先行するのです。

 文学こそ革命の根源である、と。

 近代国家の祖型、それはこの中世改革者革命における中世キリスト教共同体の成立にあります。

 われわれの情報と書類の世界、効率と生産性の世界はここに到来したのです。  

 つまり統治の情報化と暴力化は同時に起こるのです。「すべて」は情報か、さもなくば暴力になる。
「すべて」が無理矢理に情報か暴力に切り詰められた結果、それでもやはり覆いきれないものがさらに析出してくる。今やこういう言い方をすることができるでしょう。この析出された残余として出現したのが、「主権」と呼ばれる謎めいた何ものかである。
 こんな断片だけ並べてもたぶんよくわからないとは思うが、自分のために抜き書きした。
 知らない人名、難解な用語は頻出するが、ここには大切なことが書いてある、ということがわかるから読み続けられる。そして読み続けていけば必ず読める。
 私のようなどうしようもない人間でも、暴力革命ではない真の革命のために、うだうだやってないで読み、読み返し、書こう、という気にさせられる。
 前著『夜戦と永遠』は相当難しそうだけれど、挑戦してみるか。

切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話
(2010/10/21)
佐々木 中

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2010年11月27日 | | TrackBack:0 | | | Top↑ |
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