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『切りとれ、あの祈る手を 〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』佐々木中(河出書房新社)
 興奮しながら読んでしまったので、いつもにましてうまく書けない。
 これはすばらしい本。
 とにかく読むしかない。
 説明は要らない。
 本や文学に興味があるのなら読んだほうが絶対に得だ。
 読んだ者は明らかに変わる。もしくは狂う。
 本は線だらけになってしまったが、そこからいくつか選んでみる。

 他人が書いたものなんて読めるわけがない。読めちゃったら気が狂ってしまうよ。

 本を読み、本を読み返すだけで、革命は可能だということになります。

 革命は暴力に還元されるものではありません。暴力が先行するのではない。まず根拠を明示したテクストが先行する。テクストの書き換えが先行するのです。

 文学こそ革命の根源である、と。

 近代国家の祖型、それはこの中世改革者革命における中世キリスト教共同体の成立にあります。

 われわれの情報と書類の世界、効率と生産性の世界はここに到来したのです。  

 つまり統治の情報化と暴力化は同時に起こるのです。「すべて」は情報か、さもなくば暴力になる。
「すべて」が無理矢理に情報か暴力に切り詰められた結果、それでもやはり覆いきれないものがさらに析出してくる。今やこういう言い方をすることができるでしょう。この析出された残余として出現したのが、「主権」と呼ばれる謎めいた何ものかである。
 こんな断片だけ並べてもたぶんよくわからないとは思うが、自分のために抜き書きした。
 知らない人名、難解な用語は頻出するが、ここには大切なことが書いてある、ということがわかるから読み続けられる。そして読み続けていけば必ず読める。
 私のようなどうしようもない人間でも、暴力革命ではない真の革命のために、うだうだやってないで読み、読み返し、書こう、という気にさせられる。
 前著『夜戦と永遠』は相当難しそうだけれど、挑戦してみるか。

切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話
(2010/10/21)
佐々木 中

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2010年11月27日 | | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『芭蕉入門』井本農一(講談社学術文庫)
 先日読んだ『小林一茶』(宗左近 集英社新書)の中で、著者は芭蕉と蕪村のことをこの上なく尊敬している、と言い切っている。
 恥ずかしいことに芭蕉も蕪村もいくつかの句を除いては、ほとんどのことを知らない。
 ということで、今回はAmazonなどで評価の高いこの本を読んでみた。
『小林一茶』と較べるとコンパクトで、掲載されている句も少ない。
 しかし芭蕉の伝記的な記述のなかで彼の挑戦しようとしたことや悩みなどがわかりやすく書かれていて、あれだけ有名な俳人のことを私は何も知らなかったのだということを思い知らされた。
 俳諧のために伊賀から江戸に出てきて、俳諧宗匠をやめ俳諧隠者になる。反俗の人となったことで、かえって人気が出てしまう。

 しかし、脱社会、脱体制を志した作家の反俗的文学が、その脱社会性・反俗性によって世間に高く評価され、名誉や地位を与えられることには、一種の自己矛盾があるのではないでしょうか。(P109)
 そういう苦悩から奥の細道の旅に出たという。
 芭蕉という人は生まれついて悟っているような人だと勝手に思っていたので、こういう現代的な悩みを持っていたために旅に出たとは知らなかった。
 その旅から生まれたのが「不易流行」論だった。
 古今の俳諧のすぐれた作品にはある共通の本質的なものがあります。人が古人の優れた俳諧にも感心し、また現在の優れた作品にも心打たれるのは、そこに何らかの意味において共通した、ある本質的なものを想定しているからでしょう。それが「不易」です。
 しかし、個々の作品が優れた作品であるためには、常に独創的でなければならないのは当然です。時代とともに動き、新しみを求めなければなりません。それが「流行」の意味でしょう。(P137)
 不易流行という言葉は知っていたが、それは受験レベルの暗記に過ぎなかった。ラジカルな考え方である。芭蕉自体が今や古典だから、「鑑賞」するように奉っているけれども、芭蕉自身はできあいの形式に甘えるのではなく、新しいかたちを常に模索しなければならない、と言っている。
 では、どんな新しさを求めなければいけないのか、という門人たちの問いに芭蕉はどう答えたか。

 芭蕉の答は「軽み」でした。「軽み」の反対は「重み」です。芭蕉は重くない句を作ることを具体的には主張しています。
 重い句というのは、第一には観念的な句です。理屈の句です。第二には、風流ぶった句です。わざとらしい風流の句です。第三には故事や古典に寄りかかった句です。そういう句を排斥して芭蕉は俳諧の特色を発揮した軽みを強調します。(P172)
 常識のある人からは馬鹿みたいに見えるとは思うが、私は芭蕉さんのことを完全に誤解していた、と謝らざるを得なかった。理屈っぽくて、風流で、古典とかがわからないと理解できないのが俳句だと思っていたから。
 特に、風流じゃだめだ、というのにはまいった。俳句っていうのはそもそも風流なもんだろう、と今まで雰囲気で勝手に勝手に思っていたから。
 これは現代においての文学にも十分に当てはまる理論だよなあ、とひどく遅れた発見をした気分だった。風流を、例えばロマンチックとか、故事や古典をノスタルジーと言い換えればどうか。
 知らないともったいないことが江戸時代にはずいぶんある。
 恥ずかしいです。何も知らなかったのが。
芭蕉入門 (講談社学術文庫 122)芭蕉入門 (講談社学術文庫 122)
(1977/02/08)
井本 農一

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2010年11月24日 | | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『小林一茶』宗左近(集英社新書)
 信州に出かける用事があり、何の本を持って行こうかと考えたら、信州は小林一茶のふるさとだということを知り、この本を持って行った。
 俳句や短歌のことはほとんどわからない。ましてや一茶についてはいくつかの有名な句しか知らない。
 小林一茶句集を持って行った方がかっこよさそうだが、まずは一茶の人となりやらを知ることができればいいと思った。
 帯には「一茶の神髄 三三〇句」と書いてあり、春夏秋冬に分けた一茶の句に寄り添うように詩人である著者が解説、というよりも感想を記していく。初心者にはうってつけなのではないか。
 死んだ句を標本のように分析するのではなく、その句がどのように生まれてきたのかという現場にまで立ち戻って話してくれているのがすばらしい。
 私も気楽に、これはいいなと思う句に印をつけていった。
 秋の部に入っていた句では例えばこのようなものに。

  夕朝の露で持ちたる世界哉

「世界」は仏教では「三千世界」などと称えられていて、江戸時代の人々にも馴染んでいます。しかし、俳句に使われることは、明治になるまでは少なかったのではないでしょうか。一茶は口語や会話などの、俳句のそとの言葉を俳句のなかで使うのがお得意でした。革新好きというより、窮屈な約束事を破りたい気持が強かったのではないでしょうか。好き勝手をしたかったのです。(p148)
 著者の話を聞きながら一茶を読んでいると、一茶が近代人であったということがわかってくる。どうしても江戸時代以前を断絶した別の日本と考えてしまうところが私にはあるのだが、決してそんなことはないのである。

 それは、一茶の開いた俳句の、いわば人間化の道が、昭和以降の川柳とつながり尾崎方哉と山頭火の自由律俳句に流れいって、生き生きとした生命の詩の川の新しい伝統になっているということです。これが、何よりもの一茶の芸術の生命の証なのではないでしょうか。(p258)
小林一茶 (集英社新書)小林一茶 (集英社新書)
(2000/03/17)
宗 左近

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2010年11月23日 | | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『白痴』ドストエフスキー 望月哲男訳(河出文庫)
 高校生の時に読んだのだが、いつもどおりほとんど覚えていない。
 ムイシュキン公爵(今回の訳では「ムィシキン」)が無垢な存在であるということと、興奮して読んだということの記憶だけがあった。
 高校生の時と比べてキリスト教について多少知識がある今は、ムィシキンが宗教的な存在であるように書かれていることがはっきりわかる。
 ムィシキンの道化性、無垢性は真実をえぐり出し、たいていの場合はほとんどの人にいやがられる。
 しかし、すぐに誰もが魅了される。
 訳のせいかもしれないが、ムィシキンの語り口は大江健三郎の小説に出てくる「イーヨー」すなわち主人公(≒大江)の長男の話し方と似ている。
 大江の一連の小説においても、その長男の意表を突いた発言が物語を動かし、登場人物を動揺させる。
 おそらく、最初に読んだときはそんなムィシキンのキャラクターにばかり眼がいったのだと思うが、今読むとほかの登場人物にも深く魅せられる。
『カラマーゾフ』と較べると悪の書きかたが少しだけ浅いのかもしれないが、しかしひとりの人間の多面性、複雑さがこれだけ描かれているのはすごい。
 例えば、高校生だった私はたぶん、なぜムィシキンがアグラーヤというどちらかといえば善に属する女性を選ばず、悪とはいわないまでもずいぶんややっこしい女性であるナスターシャ・フィリッポヴナを選んだのかがきっとまるでわからなかった。 
 そうした理由が今ならわかるわけではないが、疑問はない。
 世界は正しいとか悪いとか、それだけでは割り切れないことだらけなのだ。
 ムィシキンはそうするほかなかったのであって、ほかの選択肢はないのである。
 ロゴージンをはじめとして複雑きわまるキャラクターたち。
 まるで小説の筋に関係のなさそうで複雑に絡み合うエピソードの数々。
 結局興奮して読み終えてしまった。 
 突然私たちの世界にやってきて、すべてを攪乱して、そしてまた去っていかなくてはいけなかったムィシキンはやっぱりすごいキャラです。
 訳も読みやすい。
白痴 1 (河出文庫)白痴 1 (河出文庫)
(2010/07/02)
ドストエフスキー

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2010年11月08日 | | TrackBack:0 | | | Top↑ |
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