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『昭和史 戦後篇』半藤一利(平凡社)
 先日半藤さんの『幕末史』がひじょうにおもしろかったが、そのときいっしょに手に入れた本。戦争が終わるまでの『昭和史 1926~1945』はすでに友人に借りて読んでいて、これでいちおう半藤さんの『~史』はすべて読んだことになる。
 戦後から現代に至る歴史の中で、とりわけよく分かっていないのは敗戦からサンフランシスコ講和条約に至る部分。
 憲法についても押しつけられたとよく言われるが、基本的な構図があまりよく分かっていなかった。
 半藤さんの語り口でその辺もざっくり把握できた。
 戦後はマッカーサーが自ら「神」となって、理想の国を日本に作ろう、と考えたことから始まった。
 したがって、GHQの施策の記述が多くを占めている。
 憲法は、押しつけられたというのは正しいけれども、経緯としては日本のほうもぐずぐずやっていたし、しかたなかったかな、と。
 国際状況が朝鮮戦争など東西対立が激化する中で、日本の戦後の体制作りも一本道では行かなかったのだったが、そんな事情がなかったら今の日本はどうなっていたのかな。
 個人的には、あまり知らなかった吉田茂の株がちょっと上昇。
 団塊世代については、それより上の世代の半藤さんはちょっと批判的。
『三丁目の夕日』的なノスタルジーは半藤さんのような戦前戦中派にはない、というのはおもしろい。
 とにかく半藤さんの本は、がっつり大枠を知るのに最適。
 いろいろ批判もあろうが、大枠を知ってから細かいことを勉強していけばいい。 
昭和史 〈戦後篇〉 1945-1989昭和史 〈戦後篇〉 1945-1989
(2006/04/11)
半藤 一利

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2009年03月30日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『おぱらばん』堀江敏幸(新潮文庫)
 堀江敏幸の本はなんとなく手に取らないまま来てしまった。
 気になってはいるのだが、後回しにしよう、と言って。
 読んだらきっとおもしろいんだろうな、とは思いながらも、まだ読んじゃだめ、と思いながら本だけは手に入れてきた。
 新潮文庫から三島賞受賞作の本書が出て、先日読んだ『柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方』でも触れられていたから、とうとう読むことにした。

高橋(略)ところで、堀江敏幸さんの作品だと柴田さんが『郊外へ』で僕は『いつか王子駅へ』を選んでますが(引用者注:海外に紹介したい日本の小説ということで選んでいる)、じつはどちらも同じような工夫がある、場所が日本と海外っていうだけで、堀江さんも普通に書いているように見えて大変な工夫があるわけですね。普通に書くのがいかに大変かっていう例で、これも「ニッポンの小説」の典型かなと思うんですが。
柴田 なるほどそうですね。新しく出てきた人たちの中でいちばん壊れていないのは堀江さんだと思ったんですが、それは堀江さんのばあいはフランス文学者としての素養があるからクラシックに書けるからなのかなと思いつつ、それも何か違うかなと思っていたんです。
高橋 そう、壊れていないように一応は見える(笑)。すごく端正でね。
柴田 端正ですね。
高橋 でもこれを読むと、これはただ端正なのではなくて端正という壊れ方ではないか(笑)。(略)(『柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方』(p185)

 たしかにねじれてねじれて360度回ってきて、美しい文章に帰ってきたという感がする。
 文章が美しい上に、ユーモアと博識に満ちていて、完璧すぎるために批判すらできない感じが漂っているのだが、そこがむしろ作戦なのかもしれず、「不気味さ」が匂ってくる。
 決して完璧な文章、描写といったものは存在するわけはないのであるけれど、それを僭称している、不遜な雰囲気。
 現代においては完璧な文章なんて作れないということは作者は百も承知なのであって、その美しさで私たちを罠に誘い込むのである。
 その結果、私たちは内容はもとより、文章自体の虚実をも確認しながら読み進めていかなければならない。
 文章や筋をぐちゃぐちゃに破壊するのとは全く逆の戦略を用いているのかもしれなかった。
 そんなむだな憶測は置いておいて、筋もおもしろい。
 ほとんど知らない小説家や画家と「私」の経験との絡ませ方。
 必ずオチがある短篇小説。
 読めば必ず嵌るのがわかっていたから読まなかったんだろうなあ。
おぱらばん (新潮文庫)おぱらばん (新潮文庫)
(2009/02)
堀江 敏幸

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2009年03月29日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『マダムと女房』五所平之助監督
 郊外の家に引っ越してきたが、雑音のせいでなかなか執筆に集中することができない劇作家。かまってほしいがためにわざと騒音を出す女房。ある日、大音量で音楽が鳴り響く隣の家に抗議に行く。その家に住んでいる洋風のマダムにすっかり魅了されてしまい一緒になって騒ぎ出してしまう。そのせいで女房はヤキモチを焼いてしまい…。(goo映画から)http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD12167/story.html

 金井美恵子か阿部和重かどちらかだと思うのだけれど、この映画の話をしていて、少し気になっていた。
 1931年に公開された日本初のトーキー映画だそうである。
 音は悪いけど、当時としては画期的だったのだろう。
 映画の黎明期は一生懸命やっていたんだな的な、若干上から目線で見ていたけれど、そのうちふつうのコメディ映画のように引き込まれてしまった。
 昭和初期の家庭や男女の関係は現代とそれほど変わっていないじゃないか、というのは当時の小説などを読んでいても思うことだが、小説には妙なバイアスがかかっていてよく見えてこない部分がある。
 こういう映画を見ていると、変わっていないことがほんとによくわかる。
 人間なんて80年くらいではまるで変わらないのだ。
 原節子はかわいいね。
(アマゾンではVHSのみ。松竹オンラインなどで見られます)
http://shochikuonline.jp/cinfo/s/000000139a/c/0008b/
2009年03月28日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | 映画 | Top↑ |
『柴田さんと高橋さんの小説の読み方書き方訳し方』柴田元幸 高橋源一郎(河出書房新社)
 柴田さんと高橋さんの対談集と聞いたらそれは読まずにいられまい。
 柴田さんが大学までそんなに小説を読んでいなかった、という話に驚き、高橋さんが大江健三郎のことを「大きい狂気を抱えている人」と評したことに、ああそうだよなあ、とうなずいた。
 興味深かったのは、頭を通さずにたくさん書いたほうがおもしろい、という話。

 高橋 さっきからなんどもたくさん書くっていう話をしていたのは、大量に書くと言葉が普通に言葉として機能するというよりも、むしろ身体の運動になってしまうからなんですね。

 柴田さんも大量の翻訳をし、学生に教えたりもしているが、結果として頭を通さずに、無意識の部分が出てくるものが「いい」という。
 書いているうちに身体が覚えてくるぶぶんはあるのだろう。
 量が質を生むのかもしれない。
 その他、現代小説のブックガイドとしても非常に有用。
 とりあえず小島信夫と堀江敏幸の小説を読みたいなあ、と思った。
 高橋さんの言うことはいつももっともだと思うが、どこかはぐらかされたり相手にうまく合わせているぶぶんもあったりする。
 柴田さんの方がある種、度胸が据わっている雰囲気。
柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方
(2009/03/13)
柴田 元幸高橋 源一郎

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2009年03月27日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『グッバイ、レーニン!』ヴォルフガング・ベッカー監督
 内容 (「CDジャーナル・レビュー」より)
激動した時代の東ドイツが舞台の、優しくて哀しいコメディ。熱心な社会主義者で愛国心の強い母親が、心臓発作で昏睡状態に陥ってしまう。奇しくもその直後にベルリンの壁は崩壊、東西ドイツは統一へ。母親は8ヵ月後にやっと意識を取り戻すのだが、強いショックは命取りになることから、息子は必死になって“今までどおり”のフリをする。ゴミ箱を漁って昔ながらのピクルスのビンを探し、他の人には見向きもされなくなった東ドイツ製の衣服を身につけ、挙げ句の果てには国営放送のニュース番組まで捏造する。本人が大真面目なだけに、その健気な奔走ぶりが可笑しくてしかたない。テレビのニュースでは伝えられない、大事件の陰にある個々人の戸惑いが切ない。 (吉田正太) --- 2004年12月号(amazon DVDレビューから引用)

 意識を取り戻した母は動くことができない。その母の部屋を以前のDDR(東ドイツ)のままにするという努力をひたすら描く、というのはシチュエーションコメディといえるだろうけれど、一方で母と主人公の息子、妹、亡命してしまった父のあいだの感情についてていねいに描いている。
 特にこの映画のひとつのテーマは嘘で、愛のある嘘はどこまで許せるか、という話になってくる。
 親は嘘をつかない、ということを無根拠に思って生きてきたけれど、それは嘘だということを最近思い知らされた私としては、何だか身につまされた。
 テレビのニュースを捏造する主人公の友だちがとてもいいやつ。
 嘘=フィクションを作り出すと、それが現実からどんどん離れて自立し、暴走していくのもおもしろい。
 国とか、生きる意味みたいな、ひどくハードな問題をこれだけおもしろく描けている映画はすごいなあ。
 ふらふらと部屋を出た母親が、時代遅れとなったレーニン像がヘリコプターで運ばれていくのを見るという象徴的な場面がタイトルになっている。
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(2004/10/16)
ダニエル・ブリュールカトリーン・サーズ

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2009年03月26日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | 映画 | Top↑ |
『眺めのいい部屋』ジェームス・アイボリー監督
  E・M・フォスターの同名小説を映画化した名匠ジェームズ・アイボリー監督の出世作。20世紀初頭、まだ封建的思想の色濃いイギリスの名家の令嬢ルーシー(ヘレナ・ボナム・カーター)は、フィレンツェ旅行に赴いた際、ホテルの眺めのいい部屋を譲ってくれた情熱的な青年ジョージ(ジュリアン・サンズ)とやがて恋に落ちていく。しかし帰国後、彼女は名門の紳士と婚約するはめになり…。
異国を訪れた女性の心理状況が繊細に描かれ、アイヴォリー作品ならではの静かで落ち着いた独特の格調と品格が映画的な潤いを与える。ヒロインと行動を共にする従姉役の名優マギー・スミスが絶品。アカデミー賞では脚色・美術監督装置・衣裳デザイン賞を受賞。(的田也寸志)(AmazonのDVD評から引用)

 ルーシーは名家の令嬢で、形式的な上流階級的なふるまいを余儀なくされているけれど、それが正しいふるまいなのか疑問を持っている。
 ルーシーの婚約者であるセシルはやはり上級階級であり、そのふるまいには疑問を持っていない。音楽や文学、絵画が好きだが、醜いものが嫌い。
 ジョージはそれよりも低い階級の若者だが、フランクで情熱的。
 映画の中で、セシルは今のわれわれの目から見るといやなやつとしか見えないし、ルーシーはジョージと結ばれるべきだ、と思う。
 ジョージはルーシーに、セシルとの婚約を解消するように言う。
「だが彼は他人と親密になれない男だ。女性を理解できない」
 私はセシルよりは他人と親密になれるような気がする。しかし、そうだろうか。
 この映画の舞台となった100年前と環境こそ変わっても、人間はそんなに変わっていない。
 形式的なものに頼って、結局自分の中身を外にさらけ出さず、からに閉じこもっている人。
 じぶんの考えや感覚で世間と向かい合っている人。
 いろんなタイプの人がいることは変わらない。
 セシルをいやなやつと思っても、それはじぶんのことだからかもしれなかった。
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(2003/07/24)
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2009年03月22日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | 映画 | Top↑ |
『できそこないの男たち』福岡伸一(光文社新書)
 けっこうショッキングな本でした。
 この本は生物の基本仕様は女性であって、男性は必要上その基本仕様をカスタマイズされたものである、ということを説明する。

 これまで見てきたとおり、生物の基本仕様(デフォルト)としての女性を無理やり作りかえた(カスタマイズ)ものが男であり、そこにはカスタマイズにつきものの不整合や不具合がある。つまり生物学的には、男は女のできそこないだといってよい。だから男は、寿命が短く、病気にかかりやすく、精神的にも弱い。しかし、できそこないでもよかったのである。初期の用途を果たす点においては。必要な時期に、縦糸で紡がれてきた女系の遺伝子を混合するための横糸。遺伝子の使い走りとしての用途である。(p276)

 たとえば、アリマキという虫は基本的にメスだけで成り立っているそうなのだ。メスが生殖行為を行うことなく、ひたすらメスを生み続ける。

 メスのアリマキは誰の助けも借りずに子供を産む。子どもはすべてメスであり、やがて成長し、また誰の助けも借りずに娘を産む。こうしてアリマキはメスだけで世代を紡ぐ。しかも彼女たちは卵でではなく、子どもを子どもとして産む。哺乳類と同じように子どもは母の体内で大きくなる。ただし哺乳類と違って交尾と受精を必要としない。母が持つ卵母細胞から子どもは自発的・自動的に作られる。(p174)
 
 私たち有性生物は、パートナーを見つけるため、常々右往左往し、他人が見たら馬鹿げた喜劇としか思われようのない徒労に満ちた行為をさんざん繰り返してようやく交接に至る。首尾よく成功したとしてもそこで受精が成立する可能性はそれほど高くない。その後、産まれた卵あるいは子どもを保護し、生殖年齢まで育て上げるためには驚くべき時間とコストがかかる。アリマキたちにはこの一切がないのだ。(p175)

 しかし、一年に一度だけ、秋にアリマキはオスを生み出す。そしてメスはそのオスと交尾して卵を産む。その卵から生まれるのはメスだけなのだ。
 いったいなんのためなのか。
 ひたすらメスがメスを生み続ける限り、アリマキAという個体はたくさんのAというコピーを産み、アリマキBはたくさんのBのコピーを作り・・・と続く。
 環境になんの変化もなければ、数は増える一方で繁栄は約束される。
 しかし、環境に変化がないとは誰にも言い切れない。
 環境が大きく変化してしまったとき、それまで繁栄してきた個体たちはその変化に対応できず一気に全滅するかもしれない。
 一年に一度、オスがメスと交尾をして、結果的にメスが生まれるということはつまり個体A、B、Cの遺伝子をオスが橋渡ししてシャッフルする、ということだ。
 個体Aから生まれたオスがBと交尾すれば、AともBとも遺伝子の内容が同じではない、シャッフルされた個体Cが現れる。
 その個体がその後の環境の変化に対応できるのか、できないのかは誰にもわからない。 しかし、このシャッフルによってアリマキという種の中で多様性が確保されることになる。
 人間は有性生殖しか行わないが、基本的なスタイルはアリマキと同じです、というのが著者の考え方である。
 
 生命が出現してから10億年、大気には酸素が徐々に増え、反応性に富む酸素は様々な元素を酸化するようになり、地球環境に大きな転機がおとずれた。気候と気温の変化もよりダイナミックなものとなる。多様性と変化が求められた。
 メスたちはこのときはじめてオスを必要とすることになったのだ。
 つまり、メスは太くて強い縦糸であり、オスは、そのメスの系譜をときどき橋渡しする、細い横糸の役割を果たしているに過ぎない。生物界においてはふつう、メスの数が圧倒的に多く、オスはほんの少しいればよい。アリマキのように必要なときだけ作られることもある。
 本来、すべての生物はまずメスとして発生する。何ごともなければメスは生物としての基本仕様をまっすぐに進み立派なメスとなる。このプロセスの中にあって、貧乏くじを引いてカスタマイズを受けた不幸なものが、基本仕様を逸れて困難な隘路へと導かれる。それがオスなのだ。
 ママの遺伝子を、誰か他の娘のところへ運ぶ「使い走り」。現在、すべての男が行っていることはこういうことなのである。アリマキのオスであっても、ヒトのオスであっても。(p184)

 こういう考え方を見せつけられると男女問わずカチンと来る人もいるだろうなあ、とは思う。
 私はなんだか晴れ晴れとした気持ちになりましたが。
 子孫もおらず、今後も生殖活動なんてものから縁遠かろう私は、生物学的にはこの世に存在する意義はない。
 横糸になれないのだから。
 はっきりとそう考えられることは、ある種すがすがしいことだと思います。
 イロニーじゃなくて。
 どこか曖昧に自分の存在する意味があるはずだ、なんてちょっとばかり「自分探し」を引きずっていたけど、完全に解き放たれたような気がする。
 それにしても、福岡さんは文学的すぎる。
 比喩を巧みに操る文章は詩人に近いかも。
 科学者で文学者というのは最強だ。
できそこないの男たち (光文社新書)できそこないの男たち (光文社新書)
(2008/10/17)
福岡伸一

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2009年03月21日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『偶然の旅行者』ローレンス・カスダン監督
 私は旅行しなくても旅行のためのパッキングがとても好きなので、冒頭の旅行の荷物についての解説部分から一気に引き込まれてしまいました。
 優柔不断な男が主人公、というだけですっかり自己嫌悪状態で見たけれど、あそこまで優柔不断なら、それはそれでひとつの主義となるんじゃないだろうか、と変に励まされさえしました。
 衝撃的な事件はほとんど起きない(少なくとも物語の時間の中では)のですが、何だか引き込まれてしまうのはどの登場人物にも私たちが投影できるから、なのかもしれません。
 表面上は優柔不断なウィリアム・ハートの自分探しが主題みたいですが、それは単なるモチーフであって、テーマではないような気もします。
 むしろ娯楽。
 取るに足らないエピソードなのに、この先どうなる?と興味をつなぎ止められていく展開は、ハリウッド的な映画とは違うし、ヨーロッパの芸術的な映画ともちょっと違う雰囲気です。
 ジーナ・デイビスがひじょうにかわいい。
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(2007/11/02)
ウィリアム・ハートジーナ・デイビス

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2009年03月18日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | 映画 | Top↑ |
『幕末史』半藤一利(新潮社)
 歴史について語る本についてはどんなものだってバイアスがかかっているのに違いありません。
 語るという行為はたぶんどうしようもなく好き嫌いを現してしまうのです。
 したがって、その語りを受け取る側もひょっとしたら違うぞ、眉唾かもよ、と思いながら語り手に向き合うべきなのでしょう。
 さて、江戸っ子である半藤一利さんは子供の頃から話を聞いていて、自然に薩長嫌いになっていったそうです。その結果、こんな風に「はじめの章」で言ってます。

 というわけで、これから私が延々と皆さんに語ることになります幕末から明治十一年までの歴史は、「反薩長史観」となることは請合いであります。あらかじめ申し上げておきます。(p13)

 これほど開き直られても、実際の語りはそれほど「反薩長史観」ではないような気もします。
 じつはわたしがあまり歴史に興味がないこともあり、幕末の歴史をきちんと把握していないまっさらな状態のためなのかもしれません。
 私と来たら新選組が何をやったのかはっきり知らないし、寺田屋事件と池田屋事件の違いもよくわかっていないどうしようもないやつなのです。
 だからこそ、どきどきしながら読みました。
 きっと講談というのはこんな感じだったのでしょう。
 徳川慶喜ってもっと名君だと思っていたのですが、意外とどうしようもない人だったんだ。
 西郷隆盛は詩人で革命家だったのだね。
 そして半藤さんがたぶんいちばん好きだから、いちばん魅力的に語られているのが勝海舟で、これはかっこいい。
 江戸の無血開城の話は知っていたけれど、もし交渉が失敗したらナポレオンの作戦を真似て江戸に敵を誘い込んで一気に町ごと焼いてしまう作戦まで立てていたとは。
 すごい。
 剛胆で明晰、筋が通っていないことは大嫌い。

 こういう事実を知って、この年で驚いているのはきっと恥ずかしいことなのでしょうけれども、知らないままでいるよりはよいことにします。
 司馬遼太郎の本よりはたぶん読みやすくて、わかりやすい。
 他の時代の半藤さんの本も読むことにしたいですね。
幕末史幕末史
(2008/12)
半藤 一利

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2009年03月12日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『現実入門』穂村弘(光文社文庫)
 この本については前からおもしろそうだなと思っていました。
 なんといっても、わたしじしんが現実から逃避したままこの年までやってきてしまった、というふうにいつも思い続けていたからです。

 そう、私は経験値が低い。「家を買う」というような大きなことから「髪型を変える」ような小さなことまで、「万引」のような悪いことから「お年玉をあげる」ような良いことまで、現実内体験というものが大きく欠けているのだ。(p9)

 そんな「ほむらさん」がブライダルフェスタに行ったり、競馬に行ったり、献血したりと、自ら経験したことのないことを編集者の「サクマさん」とともにチャレンジする、というのがこの本。
 おもしろい。
 ただし、フィクショナルなエッセイです。
 ドキュメンタリーというか、ノンフィクションではないでしょうね。
 もちろん「あとがきにかえて」でフィクションだよ、ということは示しているようですが、それ以前に本質的な意味で。
 作歌の作法としてフィクショナルな私を立てる、というのがあるらしいし(『短歌の友人』にそんなことが書いてあった)、それをエッセイの手法としたと思います。
 読んでいるほうは、こんなこと経験したことないのかよ、とちょっといい気持ちにさせるし、「ほむらさん」のだめっぷりにあきれ、応援したくなる。
 これはうまいなあ、と思いました。
 どうも手口にまんまとのせられているような。
 だから、ほんとうに経験値が低い、と思っている私にとってはなんとなく嘘っぽいぜ、と少しいらいらしたりしてしまうようなときもありました。
 しかし著者はこういう方法を使わないと、大切なことをうまく語れないのだ、とも思います。
 むしろ「現実入門」というお題を使ったエッセイであり、小説なのかもしれません。
 だから、文体やユーモアだけでは語りきれない部分をはみ出すように端々で語っています。
 たとえば、はとバスツアーの帰りの記述。
 
 今、何時なんだろう。十時か、十時半か。バスは進まない。気が遠くなるようなのろのろ運転である。サクマさんは静かな寝息を立てている。毎日の激務で疲れているのだろう。くびが傾き、肩に凭れてきそうで、しかし決して触れることはない。サクマさんの頭は私の顔のすぐ横で揺れている。だが、距離で二人の親密さが測れるわけではない。すぐ近くにいても人の心はわからない。
 あんなに元気だったおばさんたちもいつのまにかすっかり静かになっている。隣のカップルは手を繋いで眠っている。バスガイドの声も聞こえない。このバスの中で起きているのは、運転手と私だけかもしれない。
 私はうつむいて、サクマさんの手にそっと唾を落とす。(p112)

 どきっとしますし、ぞっとしますね。
 これってきっと「短歌」や「詩」みたいなもんですよね。
現実入門―ほんとにみんなこんなことを? (光文社文庫)現実入門―ほんとにみんなこんなことを? (光文社文庫)
(2009/02)
穂村 弘

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2009年03月11日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『短歌の友人』穂村弘(河出書房新社)
 高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』で面白そうに紹介されていたので手に取りました。
 これは面白い。
 恥ずかしながら私は短歌にはあまり触れたことがありません。
『サラダ記念日』がせいぜいなくらい。
 丸谷才一『新々百人一首』を読もうとしては挫折するばかりです。
 だからこの本で紹介される短歌がいちいち新鮮でおもしろいものでした。
 
 さて、この本の中で穂村弘は、短歌のモードが変遷してきていることを整理してくれています。
①「私」の獲得
 具体的には、まず日本の近代という時代性に対して、短歌という詩形は「『私』の獲得」というかたちでダイナミックに対応したと思う。与謝野晶子や斎藤茂吉など、この短歌的な「私」を最も強靱なスタイルで作品化できた歌人が、この時代の秀歌を生み出すことになった。

   やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君  与謝野晶子
   あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり    斎藤茂吉
(p136)
②言葉のモノ化
 次に戦後という時代性に対しては、様々なとらえ方があり得るが、私見では、短歌は「言葉のモノ化」というかたちで最も鋭くこれに「対応」したと思う。(中略)虚構の「私」を含む私性の拡大を可能としたのは、言葉もまた一種のモノでありそれによって示される「私」は自由に改変可能だというフェティッシュな感覚に他ならない。(中略)

    日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも   塚本邦雄
(p137)
③「口語」の導入
 定型への影響力という点で、「『私』の獲得」や「言葉のモノ化」に唯一匹敵しつつある近年のモードは「『口語』の導入」であろう。(中略)

         「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ   俵  万智
(p139)
①~③は「上塗り的な変化を示して」きました。そして現在の短歌はどうなっているのでしょうか。

 その後、二〇〇〇年代に入って、戦後の夢に根ざした言葉の耐用期限がいよいよ本格的に切れつつあるのを感じる。インターネットに代表されるメディアの変化とも関連して、修辞的な資産の放棄に近い印象の「棒立ちの歌」が量産される一方で、未来への期待と過去への郷愁をともに封じられた世代が「今」への違和感を煮詰めたところから立ち上げた作品が目につくようになった。(中略)

    3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって      中澤 系
    牛乳のパックの口を開けたもう死んでもいいというくらいに完璧に    同
    リモコンが見あたらなくて本体のボタンを押しに寝返りを打つ   斉藤斎藤
    自動改札を眺める駅員のくちびるうごく みんな よいこ         同
(p141)

 高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』、竹田青嗣『人間の未来―ヘーゲル哲学と現代資本主義』、そして穂村弘と、どの本も時代が決定的に変化している、と告げます。
 中澤系や斉藤斎藤といった、はじめて知った新しい歌人たちの歌は、中原昌也の小説のようないさぎよさがあり、こんな世界があるのだ、と目を見開かれるようでした。
 同時に、これはきっと批判されるよなあ、とも思いましたけれども。
 短歌はやっぱり奥が深いです。
 現代の短歌から遡及していってみたいと思いました。
短歌の友人短歌の友人
(2007/12)
穂村 弘

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2009年03月10日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『人間の未来―ヘーゲル哲学と現代資本主義』竹田青嗣(ちくま新書)
 ほとんどの人に何の自慢にも聞こえないのだろうが、竹田青嗣の本はかなり読んでいます。
 しかしながら、ここのところまともに本を読める能力をほとんど失っており、この本についてもきちんと読めたとは言いがたいものがあります。
 ひとつわかったことは、近代は①理想→②挫折→③イロニーと進んできているらしい、ということです。
 ①はマルクス主義が資本主義のダークサイドに対するユートピア思想として現れたことに対応します。
 ②はスターリニズムや共産主義自体の失敗に対応します。
 ③はポストモダン思想、つまり①に対する徹底的批判、そして真理なんてなにもない、という考え方であり、それが現代なのだ、といいます。
 竹田青嗣は、③で留まっていてはこのどうしようもない現代から抜けだすことはできない、と強く語ります。
 最近読む本は、みないま時代は大きく変わりつつあるのだ、と口を酸っぱくして言い続けています。
 そんなふうにぼんやりしている私はしょせん相対主義者なのですが、焦燥感にかられないこともありません。
 さて、しかしどうすればいいのでしょうか。
 竹田青嗣の本は環境問題の解決などを緊急課題として掲げるのですが、うまく言い表せない違和感があるのです。
 愚鈍な私はこの本で重要な思想家とされているヘーゲル、それにカント、ホッブス、ルソーをきちんと読んでいかなければならないのでしょう。
 今から間に合うのかは別として。
人間の未来―ヘーゲル哲学と現代資本主義 (ちくま新書)人間の未来―ヘーゲル哲学と現代資本主義 (ちくま新書)
(2009/02)
竹田 青嗣

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2009年03月08日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | 未分類 | Top↑ |
『大人にはわからない日本文学史』高橋源一郎(岩波書店)
 わかったことは明治から始まった近代日本文学というものが終わり、いままったく違う新しい時代が始まろうとしている、ということ。
 新しい時代がどんなものになるのかはわからない。
 文学についてのひとつの時代が終わるということは、私たちの生きる意味や考え方自体が終わり、新しいものを必要としている、ということなのだろう。
 高橋源一郎は語り口はやさしいが、非常にむずかしく、だが大切なことを言おうとしている。
 私がきちんと理解できないだけだ。
 もう一度よく読まないといけない。
 樋口一葉と綿矢りさと、それからとても面白そうだった穂村弘も読まないといけない。
大人にはわからない日本文学史 (ことばのために)大人にはわからない日本文学史 (ことばのために)
(2009/02)
高橋 源一郎

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2009年03月07日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
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