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『ビジネスに「戦略」なんていらない』平川克美(洋泉社新書)
 以前『株式会社という病』を読んで、とてもよかったので、この本を読んでみた。
 これまたよい。
 会社でなぜ働くのか。
 働くためのモチベーションがなぜ生まれるのか。
 そんなことをぼちぼちいつも考えているのだが、それについて手助けとなる。
「経済のグローバル化はテクノロジーの発展に伴う自然過程」だが、「グローバリズムとは経済帝国主義的な収奪システム」であるのに、「多くの経済人が、経済のグローバル化とグローバリズムを同一視し、グローバリズムに乗り遅れることは経済的な敗北を意味するという思考にとらわれていった」(まえがきから)という。
 グローバリズムとは、新自由主義的な競争戦略思考、ということらしい。
 要は、利益至上主義的な考えで、とにかく勝てばいい、そのために他の人を出し抜いたり、だましたり、「戦略」をもって、戦っていかなければいけない、ということ。
 それはどうもうまくいっていないみたいだ。
 だからといってグローバリズム以前の日本的な経営をとるべきか、という二項的な問題の立て方はたぶんおかしい。
 ということで、ビジネスについて「脱構築」して考えましょう、というのがこの本のやり方だ。
 結論めいたものとしては、目先の利益の追求はすべてではなく、だからそのために相手を出し抜く「戦略」なんてものは必要ない。
 むしろかたちにならない「信頼」を得るためにどうすればいいか考えていったほうが長いスパンで考えれば利益になるよ、というものだ。
 結論は共感できるものだが、考察のプロセスがなおおもしろい。
 そもそもビジネスとはなにか、というときに、利益追求だ、とか生きるためだ、とか、自己実現だ、とかいう話を「脱構築」して、ビジネスとは、ビジネスという形式を用いたコミュニケーションを楽しむことだ、というとんでもないことを言う。

 ビジネス上のコミュニケーションは、「建前」というインターフェース上にユニフォーム、敬語、ビジネスツールといったメタファーを使って営まれるゲームだ。参加資格は、ゲームのルールを守れること、ルールを理解できること、大人であること。これは、案外複雑で高度なヘビーなゲームなのである。(p159)

 ビジネスのコミュニケーションは、遂行的な課題についての遂行的なコミュニケーションですが、同時にそれぞれの「社会的な自分」と「個としての自分」がつくる落差と落差のコミュニケーションでもあるわけです。(中略)
 ビジネスが面白いのは、ビジネスの現場というものがこの落差を不断に再生産する「場」であるというところから来るのだろうと思います。(p165)

 会社で働いていて、たとえば上司や顧客からひどい叱責やらトラブルやらを抱えているとき、全人格を否定されてしまうような気になってしまうときがある。
 それでも、しごとがうまくいったときにはそれなりの達成感や、他の人から認められた、という喜びを感じるときもある。
 スポーツでも、エラーやトラブルショットなどで窮地に追い込まれながら、それをリカバリーしてなんとかゲームを持ち直す、といったプロセスがなければ、どんな競技も面白いゲームにはならないだろう。
 昔読んだジュリアン・バーンズの本で、天国にいって神のごとく能力を得た人が、天国でゴルフをやっていてどんどんうまくなり、結果的にすべてのホールをホールインワンで追えることができるようになってしまったらどうなる・・・といった話を読んだ気がする。
 お金のためと割り切って好きでもないしごとをする、けれども、トラブルやへこみと、一方達成したときの喜びを得る。しかもそれは遊びとは割り切れなくて、自分の生と密接なものだ。
 それを「ゲーム」という見方で脱構築することはけっこう重要なことのような気がする。
 他にも給与の評価の考え方など、とにかく会社で働く者としてはかなり考え方を新たにできる本。
ビジネスに「戦略」なんていらない (新書y 195)ビジネスに「戦略」なんていらない (新書y 195)
(2008/06)
平川 克美

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2008年11月23日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『悪魔の涎・追い求める男他八篇』コルタサル 木村榮一訳(岩波文庫)
 コルタサルは『石蹴り遊び』を集英社文庫で持っているのだが、手つかずのまま十年以上が経過した。
 むずかしそうなんだ。
 最近のマイ「ラテンアメリカ文学」ブームに乗って、短篇集を読んでみることにした。 
 これはひじょうに好きなタイプの短篇小説集。
 短篇小説は、今私が思いつきで勝手に分類すると、①独特のフレームや構造で瞬間を切り取ったもの②ある魅力的な人物の日常生活を切り抜いてそのキャラクターを見せるもの、がある。
 もちろん①と②は混在し合っているので、その度合いの強さに過ぎない。
 サリンジャーなんかは②かな、と思わせる。
 キャラに圧倒されて、小説を批評するとっかかりがないように思われる。
 この小説集はだいたいが①に属する。
 知的、みたいな評価なのだろうし、場合によっては理が勝ちすぎている、と言われかねないかもしれない。人物が描かれていない、みたいな。
 だけど、私はこの小説集はとても好きだな。

 たとえば『南部高速道路』。
 パリへ向かう片側六車線の高速道路がとんでもない大渋滞になる。
 車がまったく動かなくて、まわりの他の車の人たちと知り合いになっていく。
 渋滞はなまやさしい渋滞ではない。
 まったく車は動かないから、食料や水を調達するために、車が何台かでコミュニティを形成し、リーダーが現れる。
 季節が夏から冬に変わり、老人はなくなり、隣の車を運転していた女の子が妊娠してしまう。
 どうして救援に来ないのか、とか野暮なことは言わないが、どうして渋滞を舞台にしなければならなかったのか、と思いながら読んだ。
 たとえば無人島に漂着した、などのほうがふつうのリアリティを持たせられたはず。
 しかし最後にその疑問は解けた。
 永遠に続くかと思われた渋滞がとつぜん解消され、車が再び走り出す。
 同時にコミュニティは霧消してしまう。
 そのときに寂しさみたいなものが現れる。
 それを書きたかったのか、すごいなあ、と思った。
 
 他の小説も夢と現実の行き来をリアルに描いていて、どきどきするものばかりで、とにかくコルタサルの短篇小説は私にとってのスタンダードと考えたい、と思うほどすばらしい。
悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)
(1992/07)
コルタサル

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2008年11月20日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『ナイン・ストーリーズ』J.D.サリンジャー 柴田元幸訳(ヴィレッジブックス)
 学生の頃、野崎孝訳の『ナイン・ストーリーズ』を読んだことを覚えているが、小説の内容よりも、読んでいた情景ばかりが思い出される。
 学校から帰る夕方の電車の中で座って読んでいた。ふっと本から眼を離して車内を見渡した。そんな情景。
 書店で柴田元幸全編新訳と題された『モンキービジネス』を見つけてすぐ入手した。
 柴田元幸の訳が好きなので。
 で、再読した。
 
『笑い男』と『エズメに――愛と悲惨をこめて』に特にやられた。
 学生の頃読んだときと違うポイントでじぶんが惹きつけられているのだろうな、と思った。
 たとえば『エズメに――」の、このような箇所だ。
 X=アメリカ兵の「私」はドイツのバイエルンにある民家にいる。アメリカ軍が接収したのであろう。

 Xは額から手を放して、書き物机の表面にぼんやり目を向けた。机の上には、すべて彼にあてられた少なくとも二ダースの未開封の手紙と少なくとも五、六個の未開封の小包がごっちゃに載っていた。その瓦礫の山の向こうに彼は手を伸ばし、壁に立てかけてある一冊の本を取り出した。それはゲッペルス著の、『未曾有の時代』と題した本だった。何週間か前までこの家に住んでいた一家の、三十八歳の未婚の娘の持ち物だった本である。彼女はナチスの下級党員だったが、軍規則からすれば<自動的逮捕>の範疇に入る程度に上級ではあった。彼女を逮捕したのはX自身だった。そしていま、今日病院から戻ってきて以来三度目、彼はその女の本を開いて、見返しの白いページに書かれた短い書き込みを読んだ。インクで、ドイツ語で、小さな、どうしようもなく誠実な筆蹟で、「神よ、人生は地獄です」と書いてあった。そこに至る前のことばも、そこから続くあとのことばもない。ページの上に言葉はぽつんと孤立して、部屋を包む病んだ静けさのなか、反論の余地なき古典的ですらある告発の威信を有しているように見えた。Xは何分かぼんやりそのページを眺めながら、負けいくさとは知りつつ、、なんとかその言葉に丸め込まれまいとあがいた。それから、この何週間か一度も見せていなかった道徳的熱意とともに、短い鉛筆をとりあげ、書き込みの下に英語で、「父たちと教師たちよ、『地獄とはなにか?』と私は問う。私は思う、それは愛することができぬ苦しみだと」と書いた。そのしたにドストエフスキーの名を書きかけたが、そのとき、体の全身を走り抜ける恐怖とともに、書いた言葉がまったく判読不能であることに気がついた。彼は本を閉じた。(p129)
 
 長い引用だけれど、この小説の肝がここにあるのだろう、ということに今は気がつくことができる。
「悲惨」についてきちんと定義された部分はここなんだな、ということ。

 読み終わったときに、見覚えがある、ひどく遠く離れた場所に連れ去られているじぶんに気がついた。
 学生の頃電車の中で読んでいたときも、きっと同じように遠くに連れ去られていて不安になり、居場所を確認したかったから、まわりを見回した。その記憶だけが残っているのか。
 今までなんどもこの小説集を読み返そうとして、結局この新訳が出るまで読まなかった。
 それはこれを読むとじぶんが取り返しのつかないくらい遠くに行ってしまうからだ、ということを知っていたからだ、と読み終わってからわかった。
 麻薬のような小説。
モンキー ビジネス 2008 Fall vol.3 サリンジャー号モンキー ビジネス 2008 Fall vol.3 サリンジャー号
(2008/10/20)
J.D.サリンジャー

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2008年11月18日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『この世の王国』アレホ・カルペンティエル(水声社)
 作者のことはまるで知らなかったが、『文学全集を立ち上げる』(丸谷才一など)で評価が高かったこともあり読んでみた。
 カルペンティエルはキューバの小説家。
 この小説はハイチの歴史を舞台とした小説。
 ハイチはかつてフランスの植民地とされていたが、奴隷だった黒人が反乱を起こし、黒人が統治するが、それがまた圧政を理由に反乱により失脚し、という興亡に、ブードゥー教をベースにした秘法やら変身やらが加わって、いわゆる「マジックリアリズム」的な色合いの濃い小説である。
 小説としてはそれほど長いものではないが、各階級を代表する人物を中心に描いて、長いスパンの時間を描く。
 時間がきちんと描かれていて、読み終わったあと、ここまで来てしまったんだな、と思わせる、よい小説特有の達成感がある。
 ガルシア=マルケスのような猥雑さはなく、知的で端正な小説である。
 読みやすい。
この世の王国 (叢書 アンデスの風)この世の王国 (叢書 アンデスの風)
(1992/07)
アレホ カルペンティエル

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2008年11月17日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『族長の秋』ガルシア=マルケス 皷直訳(集英社)
 この本はたしか高校生のときに図書館で借りて読んだ記憶があるのだが、きちんと読んだ、という記憶がない。
 ただ、すごいぞすごいぞ、と思いながら読んだことを覚えている。
 今回読み返してみたら感想は、すごいぞすごいぞ、というまったく同じものだったから、少しがっかりもする。
 なにがすごいのか。
 高橋源一郎が、こう書いている(らしい。孫引きなので)。

 マルケスは好きな作家です。『百年の孤独』を読んで、これは大変な作家だな、と思って以来の読者なんですが、マルケスを読んで一番驚かされるのは一般的に考えられているのとは逆で〝技術〟的なことなんですよね。『族長の秋』でいうと、文章のスピードがものすごく速いんです。これが作品の特徴だと思うんですけど、最初の一行に足をのせたら、超高速のエスカレーターに乗ったように読者を運んでいってしまう。これは『千一夜物語』とか、ラブレーなんかでもそうだけど、奇妙な話の面白さによってひっぱっていくんじゃなくて、文章を人工的に処理する─例えば言葉をものすごく省略するとか、因果関係をとっぱらうとかいった技術的な処理をして、速度感を与えているんですね。『百年の孤独』も速いけれど、『族長の秋』の方がもっと速い。『百年の孤独』は自然に読みうる文章の非常に速い典型というふうに僕は思ったわけです。
『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』
(「ガルシア=マルケス活用事典」からコピーさせていただきました。)

「超高速のエスカレーター」とはさすがで、まったくそのとおり。
「『百年の孤独』が自然に読みうる」ならば、『族長の秋』はあまりにも早すぎて足を持って行かれて後頭部をがんと打ってしまいそうな、そんなスピードなのです。
 一例。

硝石の砂漠地帯の彼方から吹く風が、窓からどっとなだれ込んで、大勢の幼い者たちの歌声をおが屑のように寝室にぶちまけたのだ。幼い者たちは、戦場に赴いた騎士の身を気遣い、嘆きと悲しみの声を上げていた。塔に上がって、騎士が帰ってくるのを待っていた。帰って来るのを見て喜んだが、ビロード貼りのお棺の中だと知り、嘆き悲しんでいた。大勢の声だが非常にかすかなものだったので、星がうたっていると思えば眠れたはずなのに、彼は頭にきて、ぱっと起き上がり、叫んだ、もうたくさんだ。あの子供たちをどうかするか、このわしをどうかしてくれ、と叫んだ。どうかされたのは、結局、子供たちのほうだった。夜の明けきらぬうちに、セメントを満載した荷船に子供たちを乗せるように命令したのである。歌をうたう子供たちは領海の端まで連れていかれた。そしてなおもうたい続ける中で、苦痛を感じるいとまもなくダイナマイトで吹っ飛ばされた。この野蛮な犯罪を実際に行った三人の士官が直立不動の姿勢を取り、閣下、ご命令どおりにいたしました、と報告すると、大統領は、二階級特進の処置をとると同時に勲功賞を与えた。しかしその直後に、階級章を剥奪した上で、一般の犯罪人として銃殺させた。出すのはいいが、実行してはならん命令もある、ま、気の毒なことをした。(p97)

 どこから引用すればいいものやら、どこまでで切ればいいのやらわからなくなるが、とりとめもなくなるのでこのへんで。
 この引用部分だけでも、主語が転々としていき、読むほうも慣れるまではわけがわからなくなることがわかる。
 しかしそのうちに、描写というのはこういうほうが息苦しくなくていいな、と思うようにもなってくる。
 ストイックに一人の視点から描写するのではなく、ピカソの絵のようにいろんな角度からの視点を平面に収斂させてしまう方法。
 高橋源一郎のいうように、技術的な処理がすごいのだ。たぶん。
 もちろん原文では読めず、翻訳なのだが、きっと同じようなリズムなのでしょう。
 詩に近い。
 だけど詩よりははるかによみやすい。
 
 死んでしまった大統領についてひたすら書かれた小説なのだが、大統領がいかに誰かをうまく愛せなかったか、いかに誰かに愛されなかったか、ということが文章のスピードの中で浮かび上がってきて、泣けてきます。
 たぶん高校生の頃にはそんなふうには思わなかったな。
 また、いつか読み直したい。
 なんどか訳が新しくなっているみたいなので。
(今回読んだのはいちばん古い集英社のラテンアメリカ文学版でした。)
族長の秋 (ラテンアメリカの文学 13)族長の秋 (ラテンアメリカの文学 13)
(1983/06/08)
ガルシア=マルケス鼓 直

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2008年11月16日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『いつかソウル・トレインに乗る日まで』高橋源一郎(集英社)
 高橋源一郎の新刊。全然出たことを知らなかったので、あわてて入手。
 装丁はかっこいい。
 帯には「著者初の、そして最後の超純愛小説。」と書いてある。
『ノルウェイの森』の帯は「100パーセントの恋愛小説」だった。
 源ちゃんがふつうの純愛小説を書くわけがない。
 おそらく『セカチュー』や、批判しまくっていた『失楽園』のパロディではないか。
 そんな予想は覆された。
 何よりも読み始めての違和感は、ふつうのリアリズムの小説だったからだ。
 高橋源一郎の小説といえば「ポップ」とか「知的」というイメージ。
 ところが、この小説はほんとうに「ふつうの」小説を目指そうとしているようだった。 橋本治がリアリズムの小説を書く、と決めて『蝶のゆくえ』を書いたことに影響されたのだろうか。
 または全共闘世代の決算となる小説を書こうとしているのだろうか。
 いろいろ考えていたけれど、途中から違和感もなくなり、くいくい読めていく。
 主人公のヤマザキは、以前赴任していた韓国で恋愛関係にあったスンナミの娘であるファソンに出会う。
 ファソンと出会い、恋に落ちてから小説はがらりと変わっていく。
 リアリズムだったはずの小説が、少しずつ現実ではあり得ないユートピアに向けて離陸していく。
 たどり着いた場所は時間もない世界。
 散文の世界から詩の世界へ移ってきたようだ。
 そして、まぎれもなくわたしじしんが激しい恋に落ちたときに感じ、それを失ったときに渇望しつづけた無時間の感覚と似ている。
 結末は夢オチのように思えたが、たぶんそうじゃない。
 ことばでどこまでユートピアを描くことができるのか。
 高橋源一郎はそこに挑んだ、ということではないのだろうか。
 考えすぎか。
 ふつうの恋愛小説としてもすごいものだ、という気がするけど。
いつかソウル・トレインに乗る日までいつかソウル・トレインに乗る日まで
(2008/11)
高橋 源一郎

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2008年11月10日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』押井守監督
 伝説的な名作とされているらしいこの作品をようやく見ることができました。
 時間と夢についてのいわば思弁的な映画といえるのでしょう。
 筋などについてはある程度予備知識としてわかっていたとはいえ、見てみるとかなりのインパクトがありました。
 わたしは昔から同じようなことを考えていたからです。
 今の自分は「現実」を生きているようだが、実際は「夢」を見ているのではないか。
 それが「夢」であるという確証が得られないから「現実」として生きているだけなのではないか。
 デカルトや、竹田青嗣の現象学の本などにも同じような話は出てきて、うまく言いくるめられてしまったようが覚えがあるのですが、その言いくるめられようを思い出せず、やっぱり夢と現実の区別なんかできないよなあ、といまだに思ってしまうのです。
 そのアポリアから抜け出す方法はこの映画ではけっきょく示されません。
 とても怖い話だと思い、まだこの映画の世界の空気に閉じ込められたままです。
 文化祭の前日が繰り返される、というのがこの映画の導入ですが、たしか『イノセンス』でも、部屋に入っていくシーンが何度も何度も反復されていたことを思い出しました。
 この監督は時間や夢についてずっと考えつづけているのでしょうか。
うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマーうる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー
(2002/09/21)
平野文古川登志夫

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2008年11月09日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | 映画 | Top↑ |
『エマ』ジェーン・オースティン 工藤政司訳(岩波文庫)
 主人公のエマのことがとにかく好きになれなかったのだが、倉橋由美子や丸谷才一やらがオースティンのことを誉めていたから、きっとどこかで私もエマのことが好きになるのだろう、と思いつつ読んだけれど、結局エマのことは嫌いなままだった。
 エマのことが嫌いなのは、ひどくおせっかいで誰かと誰かがくっつくべきだとか、くっつかない方がいいとか、それも陰でぶつぶつ言っているだけならともかく、じぶんのことを慕っている女の子に影響力を及ぼしそのとおりにさせ、あとで、ああ誤りだった、みたいなことを言い出すところが代表的なところだ。
 しかし、なんだかんだ結局最後まで読んでしまったのは、やはり小説としての面白さだったのかな、と思う。
 そもそもオースティンじしんがエマのことを「私以外は誰も好きにならないような女」と評しているわけで、そんな女を主人公にしていることはまさしく確信犯。
 エマのことが嫌いなのはきっとじぶんじしんにまったく同じような部分があるからで、ふだんはそれを無意識に抑圧しているのに小説の中であからさまにされているから、たまらなくなるのではないか。
 じぶんのまわりを常にコントロールしていたいのに、そうは簡単にいかない。
 エマはいらいらするが、私もふだんコントロールできないことに苛立ち、しかし苛立つことすら抑圧している。
 だからエマにじぶんを投影しているようで、読んでいて腹が立つのだ。
 ただ、主人公に深く入り込めないと小説を読むのは難渋します。
 オースティン入門としては適当ではなかったのかもしれません。
 あと気になったのは、どうして登場人物はみんな風邪引くことを異常に心配しているのか、ということ。
 そんなに歩いたら風邪引くよとか、すきま風で風邪ひくんじゃないか、とか風邪の心配ばかりしていて、少し笑った。
エマ〈上〉 (岩波文庫)エマ〈上〉 (岩波文庫)
(2000/10)
ジェーン オースティン

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エマ〈下〉 (岩波文庫)エマ〈下〉 (岩波文庫)
(2000/10)
ジェーン オースティン

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2008年11月08日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『あたりまえのこと』倉橋由美子(朝日文庫)
 倉橋由美子が小説について書いているということを知ったのでこの本を手に入れた。
 厳しいです。
 金井美恵子よりもストレートにばっさばっさと切り捨てる。
 解説で豊崎由美さんが引用しているけれど、『ノルウェイの森』もこんなかんじで切られている。
 
 僕は今どこにいるのだ?
 僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕は今どこにいるのだ?でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ?僕の目に映るのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。
(村上春樹『ノルウェイの森』)

 ここで長い小説は終わります。
「僕」は別に、「ここはどこ?私は誰?」と言い出すような老人性痴呆症にかかっているわけではなく、意識と感情だけで浮遊している人間にはこうなることもあり得るというフィクションを示しただけのことです。いかにもそれらしいフィクションですが、こんな夢みたいなことは本当はありません。小説の最後になって主人公がこんな夢の中に漂っているようでは、ここに至るまでの長い話を読もうという気力も萎えてしまいます。しかし作者が歌い手となって長い叙事詩を歌って聞かせたのがこの小説だと思えば納得がいきます。歌の終わりならこんな風でもよいのです。(p176)

 倉橋由美子が言うことは、自閉的な小説はだめ、妄想はだめ、きちんとした文章じゃなきゃだめ、私小説なんてもってのほか、ということで、まったくもって至極まっとうなことしか言っていない。
 
 現代人は何かしら問題、というよりも精神的な病気や欠陥を抱えて苦しんでいなければならないという不文律ができあがっているかのようです。立派な人間、優れた人間では駄目で、賢い人間も駄目なら美男美女も駄目、平凡で大した取り柄はないけれども変わっていなければならないというのが現代小説の決まり事だとすると、こういう決まり事に支配されている小説家もあまり賢いとは言えなくなります。おそらくそういう小説家自身もその主人公並みにつまらない人間なのでしょう。(p164)

 ここまで来ると私は小説家ではないけれども読者としてどこかで同じような気持ちでいることに気付かされて耳が痛い。
 自我にこもってあーだこーだ言う小説を今まったく読みたくないのだけれど、それでいいんだな、と思ったりもした。
 小説を読むために役立つ話が満載です。
あたりまえのこと (朝日文庫)あたりまえのこと (朝日文庫)
(2005/02)
倉橋 由美子

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2008年11月02日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | 未分類 | Top↑ |
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