上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--年--月--日 | | | スポンサー広告 | Top↑ |
『フラガール』李相日監督
 評判がよかった映画をいまさら見た。
 よくできている映画で、おもしろかった。
 蒼井優をCM以外で見るのは実は初めてなのだが、上手だし、かわいいね。
 筋は何だかむりしていたり破綻しているところもあるのだが、映画も小説も破綻しているべきであるというのが持論であるわたしとしてそれはそれでよい。
 かつて名選手でいまは落ちぶれてしまった監督が、初心者ばかりの弱小野球部を鍛え上げ、甲子園に行く、的な映画である。
フラガールスタンダード・エディションフラガールスタンダード・エディション
(2007/03/16)
松雪泰子豊川悦司

商品詳細を見る

スポンサーサイト
2008年09月28日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | 映画 | Top↑ |
『チャーリーとチョコレート工場』ティム・バートン監督
 すみません。
 私にはまったく合わない映画みたいでした。
 結末がどうなるのか、ということだけを頼みに最後まで見たけれど、それだけ。
 なぜ合わなかったのか、ということはたぶん このあいだ、ほぼ日で糸井重里と北野武の対談を読んだときのこのやりとりが説明してくれそうだ。

糸井:ほかの映画がどういうふうなのか、ぼくは知らないんだけど、その「マァ、いいか」っていうのは、
たけしさんの映画独特のもんなんですか。
たけし:「マァ、いいか」っての、多いね。アバウトだから。ウン。
糸井 :あきらかにそれは北野映画の大きな特長だよね。
たけし:だから、映画でもいろいろあって、監督の頭の中で「こういう方向」って、カッチリと構図や画ができてて、プランが立ってる人は、絶対「マァ、いいか」はダメなんだけど。
糸井 :うん。「マァ、いいか」はダメですよね。
http://www.1101.com/kitano_takeshi/2008-09-22.html

 この『チャーリーと』はまさに「カッチリと構図や画ができてて、プランが立ってる人」が作った映画で、作り手の頭の中のものが正確に表出されている映画なのかもしれない。
 だけど、その場合、作り手と私がまったく折り合わなければ、それは徹底的に合わなくなってしまうのではないか。
 創作の中で偶然やら、もしくはむしろ思い通りにいかない状況みたいなものがあることで、共通理解への道が開けてくるんじゃないかなあ、と思ったりした。
 違和感は、つまりこの映画のすべてがあまりに清潔すぎて、猥雑だったり破綻している部分がなさすぎるのではないか、ということに尽きる。
 もちろん映画なんてひとりで作るものではなく、きっといろんな苦難を乗り越えてこの映画もできているのだろうし、むしろそういうものを感じさせないのが粋ともいえる。
 ただ、ふつう映画を見たとき、ひどい、とか、素晴らしいとかは思うのに、いいのかもしれないけれど私には合わない、と思った映画は珍しかったので、そんなことをいろいろ考えた。
チャーリーとチョコレート工場チャーリーとチョコレート工場
(2007/10/12)
ジョニー・デップフレディー・ハイモア

商品詳細を見る

 
 
2008年09月23日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | 映画 | Top↑ |
『ティファニーで朝食を』トルーマン・カポーティ 村上春樹訳(新潮社)
 『ティファニーで朝食を』の映画はたぶん見ているのだろうが、例によってあまりはっきりおぼえていない。
「ムーンリバー」だけ別の機会に聴いているだけなのかもしれないが。
 ホリー・ゴライトリーという女性のキャラクターを作り上げただけですばらしい。
 いろんな男の間を飛び回るが、むしろそれゆえにイノセンスが保持され続けている、という逆説的な女性。
 しかしそのイノセンスも周囲や戦争といったものに窮地に追い込まれていく。
 主人公の「僕」と同様に、私ははらはらして彼女を見守らなくてはいけない。
 ずうっと心配しながら読んでしまった。
 私はやっぱり「僕」に共感してしまう。
 もっと積極的にホリーに関与していって、救ってあげられればいいのだが、ホリーの輝きの方がずっと強く、いわば「格」が違うので語り手の立場でしかいられない。
 それではさびしいのだろうけれど。
 
 その他に。
 ・猫の使い方があまりにすばらしく、ずるいと思った。
 ・登場人物たちがホリー以外にもきちんと描かれていて、むだがない。 
 ・村上春樹自身の小説を読んでいるみたい。たとえばこんなところ。
「ねえ」と彼女は僕の顎の下に手をあてて言った。「あなたの小説が採用されて、とても嬉しいわ。嘘いつわりなく」(p69)

 村上春樹があとがきでこう書いている。そのとおりだと思います。

 主人公の「僕」がホリー・ゴライトリーのイノセンスの翼を信じ続けるように、信じ続けようと心に決めたように、僕らもまたこの『ティファニーで朝食を』に描かれた美しくはかない世界を信じ続けることになる。寓話と言ってしまえばそれまでだ。しかし真に優れた寓話は、それにしかできないやり方で、我々が生きていくために必要とする力と温かみと希望を与えてくれる。
 そして小説家トルーマン・カポーティは、僕らに優れた寓話とはどのようなものであるかという実例を、鮮やかに示してくれたのである。
ティファニーで朝食をティファニーで朝食を
(2008/02/29)
トルーマン・カポーティ

商品詳細を見る

2008年09月22日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『井戸』オネッティ(集英社「ラテンアメリカの文学」5巻所収)
 1984年10月15日第1刷発行と書かれた「ラテンアメリカの文学 5」の『はかない人生/井戸/ハコボと他者』については、もう15年くらい前に友人の引っ越しを手伝ったときに不要だからといってもらった本だった。
 友人はラテン音楽がとても好きで、その流れで集英社の「ラテンアメリカの文学」シリーズを持っていたらしい。
 あと何冊かもらった。
 その中には『族長の秋』などがある。
 いつか読もうと思っていたけれど、読めずにいた。
 ふと、オネッティのこの巻をぱらぱらめくっていたら、出だしから引き込まれた。

 先ほど部屋の中を歩きまわっていたら、ふと、この部屋をはじめて見るような思いがした。寝台が二つ。クッションが破れ、がたのきた椅子が二つ、三つ。窓枠には、ガラス代わりに陽に焼けた古新聞が張ってある。
 暑さをがまんしながら、昼間から寝台に横たわっていることにうんざりして、私は上半身裸のまま、部屋の中を行ったり来たりし始めた。午前中に天井が吸収した熱は、午後のこの時間になると、どっと室内に吐き出される。私はうしろに手を組んで歩いていた。そしてタイル床を叩くサンダルの音を聞きながら、腋のにおいを嗅いだ。首を回して、交互に腋のにおいを嗅いだ。鼻持ちならぬにおいに、しだいに顔がゆがんだ。首を回すたびに、あごの無精髭が肩の皮膚をこすった。
 私は不意に、あるささいな情景を思い出した。ひとりの娼婦は、左の肩先の赤くただれ、今にも破れそうな皮膚を私に見せながら、こう言うのだ。「まったく、どうしようもない下種な連中ばっかりよ。一日に二十人も来てさ、誰も髭を剃ってきやしないんだから」

 夏のだらだら感、突然のフラッシュバック。それに自分の腋のにおいが鼻持ちならぬ、というくだらなさ、ユーモア。
 次の一文で、ああこれは私が今読まなくてはいけないんだな、と思った。

 ああ、タバコがない、タバコがない。いまここに書いているのは自分の回想録だ。人間は四十歳になれば、それまでの人生をふりかえって、どのように生きてきたのかを書かなければならない。。興味深い出来事に彩られているのであればなおさらのことだ。そんなことをどこかで読んだ覚えがある。

 主人公と、わたしじしんがたぶんかなり近いのがこの短篇小説に没入した一つの要因だろう。
 主人公の「私」はだらだらとしながら、妄想癖があり、しかしその妄想のせいで世間とうまくやっていけないまま今に至る四十男。
 その「私」が書く回想録。
 わたしじしんが書くべきものを代わりに「私」が書いてくれているような錯覚に陥った。
 印象的な文章。

 愛は不思議で不合理なものだ。そして理解しがたいことに、あらゆる人の魂を訪れる。しかし、不思議で不合理な人はそうざらにいない。いても、ほんの短い一時期、つまり青春時代だけがそうである。それを過ぎると妥協をおぼえ変貌する。


 二年前、私はついに幸福をさがしあてたような気がした。ほぼ完全な懐疑主義に到達したように思った。ご飯を食べ、服を着、タバコを喫う、ときおり本を読む、それだけで充分幸せを満喫できると思った。あとは暗闇に向かって目を開き、適当な夢を見ればよかった。この簡単なことに気がつくまでぼう大な時間を要したことが不思議でならなかった。だがいまは、自分の生というものは、一秒ずつ刻まれる時間がただ単に通り過ぎてゆくことにすぎないと感じている。

 すべてが失われてしまったあとの静けさ,諦念。
 しかし、「私」はたぶん完全に死んではいない。
 そうでなければ逆にこのような文章は書かれない。
 こんなふうに世界を認識できればきっと楽なのだろう、という希望に思える。
 そして、虚無の中から不意打ち的に、なにかがやってくることに、そっと耳をそばだてているのではないのか。
   
 オネッティはウルグアイの作家。
 1994年に亡くなっている。
 他の小説も読まないといかん。
はかない人生 (集英社文庫)はかない人生 (集英社文庫)
(1995/03)
オネッティ

商品詳細を見る
2008年09月20日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『木曜日だった男 一つの悪夢』チェスタトン 南條竹則訳(光文社古典新訳文庫)
 チェスタトンというとブラウン神父シリーズだが、いちおうこの小説も推理小説に入るのだろうか。
 無政府主義結社を摘発するために無政府主義者に扮して侵入した詩人である刑事の物語。
 日曜日から土曜日までの各曜日を名乗る男の結社。
 主人公である詩人の刑事は「木曜日」を名乗るので、タイトルとなっている。
 最初は①意外な展開に驚き、②そのうち予想どおりになり、③さらに進むととんでもない話になっていき、④さらには「世界」についての思弁的小説となり、⑤夢オチとなる。 ④で小説世界ががらりと変わってしまうのだが、それにも必然性があるので許せる。
 ただ、あまりに難解で、私が理解するのはむずかしい。
 宗教的な知識がなさ過ぎるからだろう、とは思う。
 ただ、善とか悪とか正義とかということがキリスト教とからめて問題になっているのだろう。
 構造上かなり無理筋な気はするが、小説は基本的に何でもあり。
 こういう小説があってもいいんだな、と思わせる。
木曜日だった男 一つの悪夢 (光文社古典新訳文庫 Aチ 1-1)木曜日だった男 一つの悪夢 (光文社古典新訳文庫 Aチ 1-1)
(2008/05/13)
チェスタトン

商品詳細を見る

 
2008年09月19日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『性的唯幻論序説 改訂版 「やられる」セックスはもういらない』岸田秀(文春文庫)
 岸田秀の本はけっこう読んでいるはずで、『ものぐさ精神分析』はおもしろかったと記憶している。
 おそらく本書の改訂前、文春新書から出たものも読んだような気がするのだが、今回読んでみると再読という感じがしないから、ひょっとしたら読んでいないのかもしれない。 岸田秀のスタンスは、人間は本能が壊れた動物だから、その代わりに幻想をつくらないと生きていけない、ということに尽きる。
 本書では人間の性欲がやはり幻想に過ぎなくて、さらにその幻想が近代の男女間の差別に通じていることを問題視し、その解決をどのようにすればいいのか、ということを書いている。
 いろんな話題に行ったり、同じことを何度も繰り返したりしているから、きちんとした研究書を読むつもりだと少しいらっと来るかもしれないが、そもそも著者の論は仮説に過ぎないわけだし、その根拠となる話も仮説や推測でしかないのだから、壮大なフィクションを読んでいると思えばおもしろい。
 だいたいセックスなんて誰がどうやっているのか、すべてを知ることはできないのだから国民全員がすべてを隠し撮りでもされていないかぎり仮説に留まるのに決まっているのだ。
 問題はその仮説が読者にどれだけ説得力を持ち、男女に(特に女性に)あまり合理的ではないように思える現状の性を取り巻く環境を変えていく力を持っているのか、と言うことであって、この本は確かに冗長なところはあるけれど、その語り口の面白さと切り口によって、私はけっこう納得したりした。
 著者はいくつかのことを示唆している。
 本能が壊れてしまっており、男は本質的に不能なのであるが、それではこまるので女の性欲は置いといて、とりあえず男の性欲を回復するように文化は発展してきた。それにより女は男の性欲を刺激し男を性的に興奮させる魅力的な性的対象の役割を担うことになった、とか。
 とりわけ私が印象深かったのは、資本主義の成長により男女の性欲がある種決定的に制限され、ゆがんでしまったのだというぶぶんだ。

 要するに、西欧において最初に資本主義が発達したのは、キリスト教(むしろ、ユダヤ=キリスト教)の性文化が、本質的では内面で多少の変更を加えれば、資本主義的人間の育成に向いていたからであった。資本主義的人間とは、男に関して言えば、女のために、恋愛とセックスのために、自発的に一種の奴隷労働を悔いない人間である。(p350)

 マックス・ウエーバーが資本主義とプロテスタンティズムとの関連を主張したが、それだけではなく、性についてもキリスト教と資本主義は手を組んでいた、というのである。
 性的な貧困状態に男を追い込むことによりまじめに働かせるシステムが資本主義だった、という。

 資本主義社会のセックスは、結婚関係においても売買春においても、惨めで見苦しく寒々しい貧困なセックスであった。(p366)

 で、この現代においてどのようなセックスをわれわれはすればいいのか。

 わたしによれば、人間が性交するのは、本能的行為でもなく、能力の発揮でもなく、愛の表現でもなく、趣味である。(趣味というのは性交を性交として行う、ということ。引用者注)

 要するに、セックスをやりまくることが誇るべき男らしさの証明であるというようなかつての馬鹿げた観念に囚われてむりにがんばってセックスをするのではなく、お互いの恥ずかしい面がさらけ出される親密な関係の中で自我が傷つくのが怖くてセックスから逃げるのでもなく、セックスをしたいときに、自分と何らかの好意的関係にあってセックスの趣味も共通し、同じようにセックスをしたい相手とするのがいちばんいいと思うが、どうであろうか。(p415)

 私としては著者の考えに賛同するけれど、われわれの共同幻想がそのように変化するのかどうか。
 たぶんこの50年、というより10年くらいで性を取り巻く状況はかつてないほど大きく変化しているけれど、個人的な実感としては本質的なことは明治時代とあまり変わっていないんじゃないかな、と言う気がしてもいる。
 資本主義の枠組みが何らかのかたちで決定的に変化すれば、性的な関係も大きく変化するのではないか、とこの本を読んできて思ってはみたけれど。
 いずれにせよ、自分の性欲は本能であり、自明のものであるとどこかで思っていた私にとっては、それが生物学的にも歴史的にも外部から規定されたものに過ぎないのかもしれない、と疑わしく思えてくる、おもしろい本でした。
性的唯幻論序説 改訂版―「やられる」セックスはもういらない (文春文庫 き 14-10)性的唯幻論序説 改訂版―「やられる」セックスはもういらない (文春文庫 き 14-10)
(2008/09/03)
岸田 秀

商品詳細を見る

 
2008年09月15日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『バス男』ジャレッド・ヘス監督
 友だちに教えてもらった、ひじょうにゆるゆるの映画。
 しかし、このゆるさはここちよい。
 主人公の高校生、ナポレオン・ダイナマイトはけっして無気力だったり、世間に無関心であったりするわけではない。
 ただ、一般的な反応や、行動を取らないだけだ。取れないのかもしれないけど。
 だから周りとうまくいかない。
 だけどうまくいかなくても平気(に見える)。
 こういうのって、元気づけられる。
 私はなんだかうまくやろうとして、いつもつかれてしまっている、なと思わされる。
 それにしても、一般的な反応や、行動を取らないのは主人公ばかりではなく、基本的にこの映画全体がそうやってできている。
 ふつうの映画やドラマで処理されるべきむだみたいな「間」が放置されている。
 それがここちよい。
 現実はたぶんこんなものである。
 
バス男 (ベストヒット・セレクション)バス男 (ベストヒット・セレクション)
(2007/11/21)
ジョン・ヘダー

商品詳細を見る
2008年09月07日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | 映画 | Top↑ |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。