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『あまりにも騒がしい孤独』ボフミル・フラバル(松籟社)
 Amazonで本をあれこれ探していたら、たまたま行き当たって手に入れた本。
 チェコの作家というとカフカくらいしか知らなかったが、タイトルが気に入ったので読んでみた。
 本についての小説であり、また、チェコの置かれていた状況についての小説でもあり、もちろん私と同じような人間について書かれた小説だった。
 よかった。
 
「僕」は三十五年間、運び込まれる故紙を機械によってプレスし、キューブ状に圧縮するしごとをしている。
 運び込まれる本を処分するまえに、まるで成仏させてあげるように愛おしんで読んであげる。
 ビールを飲みながら、じっくりじっくり仕事を続ける「僕」は本もじっくり読んでいるのでいつのまにか教養を身につけている。
 地下室でひたすらプレスをし続ける「僕」は老子やキリストなどを見ることすらできるようになる。
 しかし、超大型のプレス機が導入され、機械的に本をプレスする若者たちに「僕」はしごとを奪われてしまう・・・

 文体が詩的で、飛躍していく。
 グロテスクなぶぶんや、ユーモアが盛りだくさん。
 閉鎖的な地下室でのできごとが綴られるが、決して息苦しい話ではない。
 むしろ楽しい。
『巨匠とマルガリータ』と似た雰囲気だ。
 本を積ん読していて、なかなか読むことができない私にとっては身につまされる話。
 早く成仏させてやりたいな、と思った。
 
あまりにも騒がしい孤独 (東欧の想像力 2)あまりにも騒がしい孤独 (東欧の想像力 2)
(2007/12)
ボフミル・フラバル

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2008年04月30日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『フロイト思想を読む』竹田青嗣・山竹伸二(NHKブックス)
 フロイトは興味があり、『夢判断』や『精神分析入門』、それに解説書もいろいろ読んだがいまいち腑に落ちなかった。
 そのフロイトをを竹田青嗣が解説してくれそう、というので読んでみた。
 読んでみると、少なくとも私にとっては重要な本のように思えた。
 そして、その重要性は主として山竹伸二の書いた部分に多かった。
 フロイトの考え方のポイントは、人間の存在は常に欲望の葛藤をめぐる運動にある、という。
 
 フロイトによる無意識の発見とは、人間が分裂した欲望の葛藤を抱えた存在であること、この葛藤こそ人間の行為を大きく左右していること、そうした人間の存在本質の発見だったのである。(p110)

 欲望とはどんなものか。フロイトは「性的欲望」と「道徳心」の葛藤だとしたが、山竹はさらにそれをこう分類する。

 このようにフロイトが重視した性的欲望と道徳心の葛藤は、「身体的快」「関係的快」への欲望と「自己価値」への承認欲望の葛藤として捉えることができる。
*「身体的快」・・・身体の快感や安全の確保など、からだの快適性全般が対象
 「関係的快」・・・愛情や友情など、他者との関係性における喜び全般が対象
 「自己価値」への承認欲望・・・自分の存在に価値があると実感する喜びが対象。厳密には「自己価値」への欲望とは「自己価値への承認欲望」である
(p149。*はp147から引用)

 そして、この欲望についてはフロイトの性発達論にあてはめて、次のようなプロセスが想定できる、という。

 人間は生まれた直後は快・不快に左右され、まず「身体的快」を求める存在だが、すぐに母親との関係性に喜びを感じるようになり、「関係的快」を求める存在となる。そして次第に、「母親に愛される自分」「母親に認められる自分」が意識され、「自己価値」の承認を求める存在となる。(p151)

 親との間でのルールを守ることによって自分には価値がある、と感じることができるようになるが、大人になるにつれ親以外の新しい価値観やルールにより、それまで絶対的だった親のルールや価値観が修正され、価値の一般性を吟味する際に想定される他者、「一般的他者」の視点を得ることができるようになる。
 これは納得できる話だと思った。
 私は、どこかに一般的他者の視点を置いて、それに誉められるような行動をとろうとしている。きっと「一般的他者」はひとによってまったく異なるものなのだろうけれど。
 さて、この一般的他者の視点をどのようにして獲得するのか。
 フロイトの「エディプス・コンプレックス」がその契機なのだ、という。

 男の子が四、五歳になると母親に対して性愛願望を抱き、独占したいと感じ始める。すると父親は邪魔な存在になるため、無意識のうちに憎しみを向けるようになる。(中略)しかし、やがて男の子は「父親に逆らえば去勢される」という不安から、母親への執着を断念し、エディプス・コンプレックスは終結する。(p161)

 父親がこどもの近親相姦願望を禁止し、子供がそれを受け入れるという話は、言わば二者関係の甘えを脱し、社会のルールを受け入れる象徴的な物語として受け取る必要がある。

 エディプス・コンプレックスは単に社会的関係や社会性の獲得のみを意味するのではなく、自分の行為に誰もが認めるような価値があるのか否か、その一般性を判断するような視点をもたらす契機として理解できるのである。(p168)

 一対一の関係においてはそれが価値のあるものなのか、確信を持つことができない。一対一の閉じた関係に第三者の視点を入れること、それは自己価値への承認欲望を満たすことができる契機となる、というのだ。
 これもわかるなあ。
 自分だけが楽だとか、気持ちよくても、それが周りの多くからブーイングを受けるような行為はいやだもんねえ。

 このように分裂した欲望対象の中でもとりわけ人間的欲望と言えるのが、「自己価値」が承認されることへの欲望である。これは自我の幻想性に関わる人間独自の欲望と言ってよい。人間は自己について幻想を抱く存在であり、私たちが思い描く自己像や自己物語は幻想性を含んでいる。この自己像は他者との関係の中で絶えず刷新されるのだが、それは自分が他者に承認されるような存在か否か、絶えず自己価値を気にかけているからだ。私たちが「自我」と呼んでいるものは、このように他者関係において編まれた幻想なのである。(p184)

 自我はエス、外界、超自我の三者に要求を突きつけられ、葛藤に苦しめられるのだ。(p193)
*エス・・・混沌とした欲望の集積
 自我・・・理性を代表するものであり、外界(社会規範、世間的な価値観)の影響を考えてエスの衝動を抑制しようとする。
 超自我・・・内的規範。無意識的な自己批判、良心、罪悪感
 つまり、「エスと超自我の葛藤」および「エスと外界の葛藤」は、いずれも「『~したい』と『~ねばならない』の葛藤」に還元できる。(p198)

 ここで『~ねばならない』という自己ルールは親子関係から強く反映されたものだが、これが一般性に乏しいものであると、いわゆる心の病や、人間関係の軋轢を生むものになってしまう。成長に伴ってうまくそのルールが修正、変更されてくれればいいが、それが「無意識」にあるかぎり、つまり自覚できていないと、問題になるケースが多いという。 つまり、「『~したい』と『~ねばならない』の葛藤」を自己了解し、きちんと向きあえば、どちらが納得できるものなのか、考えられるというのだ。

 人間は分裂した欲望を抱え、欲望と当為の葛藤に悩まされる存在だが、しかしこのことを自己了解し、絶えず自由な自己決定によって可能性を切り開く存在でもある。フロイト理論から見えてくるのは、まさにこのような人間像なのである。(p212)
*当為・・・『~ねばならない』

 しかし「一般的他者の視点」があれば、具体的な他者の承認が得られない場合でも、自分の行為に価値があると信じられるようになる。「今は周囲の人間に理解されなくとも、いつかどこかで必ず承認されるだけの価値はある」と確信できる。(p219)

 信頼できる二者関係における相互幻想的自己了解。そして、第三者を意識した「一般的他者の視点」による自己分析。私たちはその二つの間を行き来しつつ、自己像と自己ルールを刷新しながら生きているのである。(p220)

 すごーくながーく引用してきてしまったけれど、まさに生きることというのはこの言葉に尽きてしまうような気がする。
 ひとりではつらい。だれかに自分をわかってもらいたい。信頼できる誰かがほしい。それは自分のためである。そしてそれを通じて、また別の視点から第三者を引き入れて、自分のことを考えなおす。
 毎日毎日、そんなふうにして生きているのだ、とこの本を読んで了解したのだ。
 このシンプルな考え方を、しばらく生きていくうえでの原理にしていってみようかな、とちょっと大げさに思ったりしたのでした。




フロイト思想を読む―無意識の哲学 (NHKブックス 1108)
2008年04月21日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
 ここのところ、詩を読んでいる。
『戦後名詩選Ⅰ、Ⅱ』というのを中心にして、うちにあるいくつかのほこりをかぶった詩集を読んでいる。
 詩をこの年齢になるまで読めないでいた。
 読み方がわからなかったのだ。
 詩集があるとして、それを頭から順番にきっちり読んでいこう、としていたけど、いつも挫折した。
 音読しなくては詩は読んだことにならない、なんてこともどこかで聞いた。
 気恥ずかしくて、詩を音読なんてできない。
 現代詩は難しい、と言われる。
 わたしには現代詩のみならず「詩」というジャンルじたいがどうしても踏み込めないもののような気がした。
 吉本隆明の『詩とはなにか』という本を読んでいると、現代詩を読むときなんかそんなに難しく考えることねえよ、と言っている。
 大抵のばあい、わたしは、よんでもうまくわかったと感じられない作品をまえにすると、わかったと感じられる個処をつなぎ合わせて作品全体の秩序が実感できれば、その作品の鑑賞をおしまいにするのである。(p61『現代詩のむつかしさ』)
 こんなもんでいいのか、と驚いて、楽になった。
 今になって思うと、わたしは詩のことをこんなふうに思っていた。
 詩は暗号のようにできていて、いっしょうけんめい読み解くことによって真理が書いてある、と。
 だけどそうではなさそうだ。
 言葉の塊みたいなものをぽつりぽつりと拾い食いするように、アンソロジーをいくつか読んで、気に入った詩人の詩集をまたぽつりぽつりと読むことを始めた。
 どきどきする言葉の組み合わせに驚いたりする。
 新聞記事の文章とはあまりにもちがう日本語に驚く。
 詩の言葉を取り入れることで、じぶんの中の日本語をいったんチャラにしてしまいたい。
 自分自身をチャラにしてしまいたい。
2008年04月06日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
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