『詩人・評論家・作家のための言語論』を読む
2008 / 02 / 20 ( Wed )
『詩人・評論家・作家のための言語論』吉本隆明(メタローグ)
荒川洋治の『文芸時評という感想』でこの本について書かれていたので読むことにした。
以前、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』を読んでみたが挫折したのだが、それにつながるもので、「読者に無理のないように構成されているので、読みやすい」と荒川さんが言っているので。
前半「言葉以前のこと」については、話のまくらとしては長すぎるし、科学的であるようなオカルトであるような妙な話も多いのであまり好きではなかった。興味もあまり持てない話だし。
「言葉の起源を考える」からおもしろくなった。
神話について。
『古事記』でお妃が「じぶんの子供たちに『うちの旦那が陰謀でおまえたちを殺そうとしているぞ』と教えるために」次のような歌を詠んだ、という話。
狭井河よ 雲立ちわたり 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす
そして、キモとなる部分。
これは過激な話で、簡単に受け入れていいものか、そして、じっさいにこの方法をどう具体的に扱っていくべきなのかかんがえてしまうところだが、ふつうの小説や詩を読む方法をひっくり返す視点であるために、これからはこの考え方が常に自分の中に入ってしまいそうだ。
いずれにせよ、『言語にとって美とはなにか』をそのうち読まないとね。
荒川洋治の『文芸時評という感想』でこの本について書かれていたので読むことにした。
以前、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』を読んでみたが挫折したのだが、それにつながるもので、「読者に無理のないように構成されているので、読みやすい」と荒川さんが言っているので。
前半「言葉以前のこと」については、話のまくらとしては長すぎるし、科学的であるようなオカルトであるような妙な話も多いのであまり好きではなかった。興味もあまり持てない話だし。
「言葉の起源を考える」からおもしろくなった。
神話について。
『古事記』でお妃が「じぶんの子供たちに『うちの旦那が陰謀でおまえたちを殺そうとしているぞ』と教えるために」次のような歌を詠んだ、という話。
狭井河よ 雲立ちわたり 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす
「狭井河」は三輪山のそばにある川です。この歌はすべてが自然描写で、山に雲があって、風が吹いているといっているだけです。しかし当時の人にはそうは聞こえない。「あのあたりで陰謀をやっているぞ」という意味に受け取ったわけです。
ぼくらが神話を読むばあいは、自然を描写した比喩で何かを物語っているように読んでいますが、おそらく当時の人は逆です。自然を描写する以外に、「あいつは陰謀でおまえを殺そうとしているぞ」という言い方はなかったとかんがえるのが正しいとおもいます。(p130)
つまり、古い日本語では抽象的な言葉(=あいつは陰謀でおまえを殺そうとしているぞ)は存在せず、自然を描写することによって抽象的な内容を表現するしかなかった、という。正しいのかどうかはわたしにはわからないけれども、風通しの良くなるような考え方で、わたしは好きだな。ぼくらが神話を読むばあいは、自然を描写した比喩で何かを物語っているように読んでいますが、おそらく当時の人は逆です。自然を描写する以外に、「あいつは陰謀でおまえを殺そうとしているぞ」という言い方はなかったとかんがえるのが正しいとおもいます。(p130)
そして、キモとなる部分。
われわれの言語美学的考え方からすると、まずはじめに〈韻律〉が根底にあり、それから場面をどう選んだかという〈撰択〉があり、表現対象や時間が移る〈転換〉ということがあります。そして、メタファー(暗喩)やシミリ(直喩)などの〈喩〉があるわけです。この四つは言葉の表現に美的な価値を与える根本要素になるわけです。(p160)
以上の四つ(さらに〈パラ・イメージ〉という上方からの視点のイメージを付け加えて五つとしてもよい)の要素で文芸作品を評価すべきであって、たとえば「主題」などという要素は考慮する必要はない、というのがこの本の(そしておそらく『言語にとって美とはなにか』の)ポイントとなる部分だ。これは過激な話で、簡単に受け入れていいものか、そして、じっさいにこの方法をどう具体的に扱っていくべきなのかかんがえてしまうところだが、ふつうの小説や詩を読む方法をひっくり返す視点であるために、これからはこの考え方が常に自分の中に入ってしまいそうだ。
いずれにせよ、『言語にとって美とはなにか』をそのうち読まないとね。
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『日記をつける』を読み、日記欲が湧く
2008 / 02 / 17 ( Sun )
『日記をつける』荒川洋治(岩波アクティブ新書)
マイブーム荒川洋治の本だったので、とりあえず読んでみた。
日記についてはあまり興味がない。
子供のころなんども「三日坊主」でやめたから、もう書かないと決めたのだ。
ブログは続いているけれど、日記とはまた違うような気もするし。
しかし、この本を読むと日記、しかもパソコン上ではなくて、ノートにペンで書く日記が書きたくなってしまった。
「1 日記いろいろ」武田百合子の『富士日記』も引用されている。あの本はいい。誰もが絶賛しているなあ。
「2 日記はつけるもの」荒川洋治は大学の講義の際にできるだけ新しい話をするようにしているが、いつもそういうわけにいかない。しかし、前に来たことがある人が聴講しているときに同じ話をしないように、日記に誰が聴講したか、つけてあるそうだ。それに関連して。
「4 日記からはじまる」日記から詩や俳句やエッセイや小説に変化していくこともある。日記、つまりことばにすることで、思考もひろいところにでてゆく(「エッセイへ」のあたり)。
「5 あなたが残る日記」
この本を読んで日記を書きたくなった最大の理由は、次の箇所による。元日から始めると力が入りすぎて途中でしおれてしまうものだ、ということを受けて。
マイブーム荒川洋治の本だったので、とりあえず読んでみた。
日記についてはあまり興味がない。
子供のころなんども「三日坊主」でやめたから、もう書かないと決めたのだ。
ブログは続いているけれど、日記とはまた違うような気もするし。
しかし、この本を読むと日記、しかもパソコン上ではなくて、ノートにペンで書く日記が書きたくなってしまった。
「1 日記いろいろ」武田百合子の『富士日記』も引用されている。あの本はいい。誰もが絶賛しているなあ。
「2 日記はつけるもの」荒川洋治は大学の講義の際にできるだけ新しい話をするようにしているが、いつもそういうわけにいかない。しかし、前に来たことがある人が聴講しているときに同じ話をしないように、日記に誰が聴講したか、つけてあるそうだ。それに関連して。
ぼくは毎回、これまで話したことのない、新しい話題にしようと決めている。はじめて人にする話を「舞台」にかけるときは、つっかえたり、ことばがうまく出ないものだが、それでも最初なので、話に力があるものである。いつか話したことのある話をすると、なれているので、聴いている人には聞きやすいが、自分で話していて「つまらないなあ」と感じ、それが話を薄めてしまう。そうなることは自分にとって、つまらないことだ。人間は同じ話をしてはならないのだ。自分のために。(p55)
「3 日記のことば」日記は自分のためにつけるもので、人に見られることを想定していないはずだが、日記の文章が一定の分量を超えたとき、それは「社会的」なものに転換し、読者を意識した文章に変わっていく(「一日の長さ」のあたり)。わかるなあ。「4 日記からはじまる」日記から詩や俳句やエッセイや小説に変化していくこともある。日記、つまりことばにすることで、思考もひろいところにでてゆく(「エッセイへ」のあたり)。
「5 あなたが残る日記」
日記をつけることは、自分のそばに、自分とは少しだけちがう自分がいることを感じることなのだ。ときどき、あるいはちょっとだけでも、そう感じることなのだ。その分、世界はひろくなる。一日もひろくなる。新しくなる。(p163)
この本を読んで日記を書きたくなった最大の理由は、次の箇所による。元日から始めると力が入りすぎて途中でしおれてしまうものだ、ということを受けて。
はじめてつける人は、二月十七日とか、六月二日とか、いつでもいいが、なんでこんな日からスタートするの?と思われるくらいの日でもいい。(p103)
今日が二月十七日だったので。それだけっす。![]() | 日記をつける (岩波アクティブ新書) (2002/02) 荒川 洋治 商品詳細を見る |
『詩とことば』で詩に興味を持つ
2008 / 02 / 13 ( Wed )
「詩とことば」荒川洋治(岩波書店)
ぼくは詩が読めない。
読もうとするのだが、なにか違和感があって、結局うまくいかない。
とくに現代詩、という世界にはなにか必要とすべきものがありそうな気がするのだが、どうしても入り込めない。
すばらしい散文(『文芸時評という感想』)を書いたこの詩人が、詩について書いた本だというから読まなくてはいけなかった。
詩は文章表現としては散文と比べると異常なのだろうか。
むしろ「散文が異常ではないのか」という。
散文と詩のちがいについて、これだけわかりやすく説明されたことはなかったので。
情報を伝えるためだけなら、散文はまちがいなく効率的だ。
しかし、文というものは情報を伝えるためだけでいいんでしょうか?ということですよね。
散文を貧しくしないためには詩のことを考える必要がある。
後半には現代詩を書いた人たちについてのガイドなどもあり、詩を読んでみよう、という気になった。
とりあえず、作者の詩集を手に入れることにしようと思う。
ぼくは詩が読めない。
読もうとするのだが、なにか違和感があって、結局うまくいかない。
とくに現代詩、という世界にはなにか必要とすべきものがありそうな気がするのだが、どうしても入り込めない。
すばらしい散文(『文芸時評という感想』)を書いたこの詩人が、詩について書いた本だというから読まなくてはいけなかった。
詩は文章表現としては散文と比べると異常なのだろうか。
むしろ「散文が異常ではないのか」という。
白い屋根の家が、何軒か、並んでいる。
というのは散文。詩は、それと同じ情景を書きとめるとき、「白が、いくつか」と書いたりする。そういう乱暴なことをする。ぼくもまた、詩を読むのはこういう粗暴な表現に面会することなので、つらいときがある。だが人はいつも「白い屋根の家が、何軒か、並んでいる」という順序で知覚するものだろうか。実は「何軒かの家だ。屋根、白い」あるいは「家だ。白い!」との知覚をしたのに、散文を書くために、多くの人に伝わりやすい順序に組み替えていることもあるはずだ。
詩は、その言葉で表現した人が、たしかに存在する。たったひとりでも、その人は存在する。でも散文では、そのような人が一人も存在しないこともある。「白い屋根の家が・・・・・・」の順序で知覚した人が、どこにもいないこともある。いなくても、いるように書くのが散文なのだ。それが習慣であり決まりなのだ。
散文は、つくられたものなのである。(p43)
目からうろこである。というのは散文。詩は、それと同じ情景を書きとめるとき、「白が、いくつか」と書いたりする。そういう乱暴なことをする。ぼくもまた、詩を読むのはこういう粗暴な表現に面会することなので、つらいときがある。だが人はいつも「白い屋根の家が、何軒か、並んでいる」という順序で知覚するものだろうか。実は「何軒かの家だ。屋根、白い」あるいは「家だ。白い!」との知覚をしたのに、散文を書くために、多くの人に伝わりやすい順序に組み替えていることもあるはずだ。
詩は、その言葉で表現した人が、たしかに存在する。たったひとりでも、その人は存在する。でも散文では、そのような人が一人も存在しないこともある。「白い屋根の家が・・・・・・」の順序で知覚した人が、どこにもいないこともある。いなくても、いるように書くのが散文なのだ。それが習慣であり決まりなのだ。
散文は、つくられたものなのである。(p43)
散文と詩のちがいについて、これだけわかりやすく説明されたことはなかったので。
情報を伝えるためだけなら、散文はまちがいなく効率的だ。
しかし、文というものは情報を伝えるためだけでいいんでしょうか?ということですよね。
散文を貧しくしないためには詩のことを考える必要がある。
後半には現代詩を書いた人たちについてのガイドなどもあり、詩を読んでみよう、という気になった。
とりあえず、作者の詩集を手に入れることにしようと思う。
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『文芸時評という感想』の感想
2008 / 02 / 12 ( Tue )
『文芸時評という感想』荒川洋治(四月社)
高橋源一郎が『ニッポンの小説』でこの本から長々と引用しており、いつか読みたいと思っていた。
このあいだ読んだ加藤典洋の『言語表現法講義』でも荒川洋治に言及されていたので、ようやく手に取った。
よかった。
文芸時評というと、やはり高橋源一郎の『文学がこんなに分かっていいかしら』がとても良かったのだが、それと同じくらいにすばらしい。
荒川洋治の文章を初めて読んだのだが、その文章がよい。
そして、それは高橋源一郎に近いものを感じた。
うっとうしくないけれど、愛がある。
そんな感じ。
詩人(高橋源一郎は詩人ではないけれど、現代詩のことはたぶん現代詩人よりも知っているのにちがいない)たちの文章は、散文の文章とはどこか根本的に違っているのだ。
こんな文章が12年も新聞に載っていたのだが、おそらく周りの文章とはまったく違って見えただろう。
知っている小説も出てくるが、基本的には文芸誌に発表された小説を毎月取り上げるので、知らないものの方がはるかに多い。それなのにおもしろい。
荒川洋治がきちんと愛をもって読んでいるからなのだろう。
そして、きついことも言っている。
私は保坂和志が好きだが、保坂和志についてもこのように。
大江健三郎もばさばさ切っているし、村上春樹もだめなものはだめだが『神のこどもたちはみな踊る』では「日本では村上春樹だけが小説を書いているのだといえるかもしれない」とまで絶賛している。
ほめ方も批判の仕方もその文章のせいで私にはすがすがしかった。
いつか、『ニッポンの小説』と平行して再読をすることにします。
高橋源一郎が『ニッポンの小説』でこの本から長々と引用しており、いつか読みたいと思っていた。
このあいだ読んだ加藤典洋の『言語表現法講義』でも荒川洋治に言及されていたので、ようやく手に取った。
よかった。
文芸時評というと、やはり高橋源一郎の『文学がこんなに分かっていいかしら』がとても良かったのだが、それと同じくらいにすばらしい。
荒川洋治の文章を初めて読んだのだが、その文章がよい。
そして、それは高橋源一郎に近いものを感じた。
うっとうしくないけれど、愛がある。
そんな感じ。
詩人(高橋源一郎は詩人ではないけれど、現代詩のことはたぶん現代詩人よりも知っているのにちがいない)たちの文章は、散文の文章とはどこか根本的に違っているのだ。
こんな文章が12年も新聞に載っていたのだが、おそらく周りの文章とはまったく違って見えただろう。
知っている小説も出てくるが、基本的には文芸誌に発表された小説を毎月取り上げるので、知らないものの方がはるかに多い。それなのにおもしろい。
荒川洋治がきちんと愛をもって読んでいるからなのだろう。
そして、きついことも言っている。
私は保坂和志が好きだが、保坂和志についてもこのように。
「季節の記憶」は好評で、文壇の二つの賞に輝いたが、ぼくはこの作品は「あやしい」と感じていた。彼の最近の小説の特徴は、哲学の知識や思考をそのまま文章の中に出して理屈をこねること。また、なにもわからない子供を登場させ、これはね、こういうことなのだよ、というように一件民主的な親密さを漂わせはするものの、人の「上位」に立とうとする態度が匂う。(p169)
きびしい。だけれど、『プレーンソング』のすばらしさ=なにもなさに比べると、『季節の記憶』などは確かにむずかしいなあ、という気はする。大江健三郎もばさばさ切っているし、村上春樹もだめなものはだめだが『神のこどもたちはみな踊る』では「日本では村上春樹だけが小説を書いているのだといえるかもしれない」とまで絶賛している。
ほめ方も批判の仕方もその文章のせいで私にはすがすがしかった。
いつか、『ニッポンの小説』と平行して再読をすることにします。
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『肉体の悪魔』に驚愕する
2008 / 02 / 05 ( Tue )
『肉体の悪魔』ラディゲ 中条省平訳(光文社文庫)
この本も再読だが、前に読んだときは確か新潮文庫で読んだ気がする。それも高校生の頃だ。
ラディゲは20歳で亡くなってしまい、わたしはその倍以上の歳をとり、もちろん小説なんか書かないでここまで来たわけだが、改めて読み直して、この小説のすごさに打ちのめされた。
ほんとうに打ちのめされる。
これが18歳の少年が書いた、ということ抜きにして、どうしてここまで冷徹にこころが分析されてしまうのか、という驚きである。
たぶん、ふつうの人だってこころの分析をして文章にすることはできる。
だが、それは人体の解剖をしたけれど、取り出した内臓などはもう姿形もない、ぐちゃぐちゃな臓物に過ぎないだろう。
ラディゲはまるで模型のように、これが心臓、これが肝臓、というように美しく身体の中から取りだしてくる。
取り出された文章はすべて自分のことなので、読み進めることができなくなる。
ここまできちんと取り出さなくても、と思ってしまう。
自分の汚さや、いい加減さ、残酷さを鏡に映されて、いい気持ちではいられない。
まだ自分がまともだと思っていた高校生の頃ですら、きっとつらかった。
汚れちまったことを自覚している今、この小説を読むことはほんとうにつらい。
だが、いっぽうで感心してしまうしかないのである。
天才っているんです。
引用したい文章ばかりであるが、ひとつだけ。
この本も再読だが、前に読んだときは確か新潮文庫で読んだ気がする。それも高校生の頃だ。
物語の筋書きだけを取り出せば、凡庸きわまりないものです。早熟な少年が、人妻に恋をし、その夫が戦争に行っているのをいいことに肉体関係を続け、彼女の生活をめちゃめちゃにしてしまう、というものです。(「解説」から)
ラディゲがこの小説を書いたのが17歳から18歳の頃で、同じ歳だったわたしはこれほどの小説がひょっとしてわたしにも書けるのだろうか、と少しわくわくした記憶がよみがえってきた。ラディゲは20歳で亡くなってしまい、わたしはその倍以上の歳をとり、もちろん小説なんか書かないでここまで来たわけだが、改めて読み直して、この小説のすごさに打ちのめされた。
ほんとうに打ちのめされる。
これが18歳の少年が書いた、ということ抜きにして、どうしてここまで冷徹にこころが分析されてしまうのか、という驚きである。
たぶん、ふつうの人だってこころの分析をして文章にすることはできる。
だが、それは人体の解剖をしたけれど、取り出した内臓などはもう姿形もない、ぐちゃぐちゃな臓物に過ぎないだろう。
ラディゲはまるで模型のように、これが心臓、これが肝臓、というように美しく身体の中から取りだしてくる。
取り出された文章はすべて自分のことなので、読み進めることができなくなる。
ここまできちんと取り出さなくても、と思ってしまう。
自分の汚さや、いい加減さ、残酷さを鏡に映されて、いい気持ちではいられない。
まだ自分がまともだと思っていた高校生の頃ですら、きっとつらかった。
汚れちまったことを自覚している今、この小説を読むことはほんとうにつらい。
だが、いっぽうで感心してしまうしかないのである。
天才っているんです。
引用したい文章ばかりであるが、ひとつだけ。
心の中に理性には見えない筋道があるとき、心は理性より筋道の通った行動をする。そのことを認めなければならない。たぶん僕たちはみんなナルシスなのだ。水鏡に映った自分の姿を愛することもあれば憎むこともあるが、他人の姿は目に入らない。自分の姿との類似を見分ける本能が、僕たちを人生の中で導いてゆき、ある風景や女性や詩の前まで来たとき、「これだ、ここで止まれ!」と僕たちに叫んで教えるのだ。ほかの風景や女性や詩の場合、それをいいと思うことはあっても、本能の叫びのような衝撃を感じることはない。自分との類似を見分ける本能だけが、真実の導きの糸になる。(p134)
われわれは「自分」が好きだから、他の人の中にも「自分」と同じものを探し、それを愛してしまう。まるで精神分析のようだ。
![]() | 肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫) (2008/01/10) ラディゲ 商品詳細を見る |
『予告された殺人の記録』に引き込まれる
2008 / 02 / 04 ( Mon )
『予告された殺人の記録』G・ガルシア=マルケス 野谷文昭訳(新潮文庫)
この本も再読。だけど、かなり読み飛ばしたんだなあ。まるで覚えていませんでした。
サンティアゴ・ナサールの友人である「わたし」が約三十年前に起きた殺人の真相を確認しようとする試みのスタイルで小説は進む。
周りの人たちに対するインタヴュー、わたし自身の追想といったものが積み重ねられる。
事件は簡単にはこうである。
バヤルド・サン・ロマンが娶ったアンヘラ・ビカリオがその初夜、生娘でなかったことが分かり、実家に即刻返された。彼女と通じたのがサンティアゴ・ナサールであることを知った彼女の兄である双子のパブロ・ビカリオ、ペドロ・ビカリオがサンティアゴ・ナサールを殺した。
しかし、調べれば調べるほど、そんなに簡単な話ではないことが、読者にすら分かってくる。
アンヘラ・ビカリオが通じたのはほんとうにサンティアゴ・ナサールであったのか、という最大の謎をはじめ、本気で殺すつもりだったかどうだか疑わしいビカリオの双子の兄弟がなぜほんとうに殺すことになってしまったのか。偶然がここまで続いていいのか、等々。
サンティアゴ・ナサールが殺されることが分かっているのに、結局最後までぐいぐい読まされるストーリーのすごさにやられてしまったのでした。
もう少し細かく分析したいものです。
あと、ガルシア=マルケスの小説に出てくる男はたいていどうしようもない。そして、女はたいていものすごい。
小説の話ではなく、現実にそうなのかも知れませんが。
この本も再読。だけど、かなり読み飛ばしたんだなあ。まるで覚えていませんでした。
自分が殺される日、サンティアゴ・ナサールは、司教が船で着くのを待つために、朝、五時半に起きた。(p7)
この小説はこのように始まる。小説の第一行で殺人が予告されてもいるわけである。こんな展開でどこまで持って行けるのか。そのテクニックがどうなっているのかを見るために読み進めたようなものである。サンティアゴ・ナサールの友人である「わたし」が約三十年前に起きた殺人の真相を確認しようとする試みのスタイルで小説は進む。
周りの人たちに対するインタヴュー、わたし自身の追想といったものが積み重ねられる。
事件は簡単にはこうである。
バヤルド・サン・ロマンが娶ったアンヘラ・ビカリオがその初夜、生娘でなかったことが分かり、実家に即刻返された。彼女と通じたのがサンティアゴ・ナサールであることを知った彼女の兄である双子のパブロ・ビカリオ、ペドロ・ビカリオがサンティアゴ・ナサールを殺した。
しかし、調べれば調べるほど、そんなに簡単な話ではないことが、読者にすら分かってくる。
アンヘラ・ビカリオが通じたのはほんとうにサンティアゴ・ナサールであったのか、という最大の謎をはじめ、本気で殺すつもりだったかどうだか疑わしいビカリオの双子の兄弟がなぜほんとうに殺すことになってしまったのか。偶然がここまで続いていいのか、等々。
サンティアゴ・ナサールが殺されることが分かっているのに、結局最後までぐいぐい読まされるストーリーのすごさにやられてしまったのでした。
もう少し細かく分析したいものです。
あと、ガルシア=マルケスの小説に出てくる男はたいていどうしようもない。そして、女はたいていものすごい。
小説の話ではなく、現実にそうなのかも知れませんが。
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『言語表現法講義』を読み返してみた
2008 / 02 / 03 ( Sun )
『言語表現法講義』加藤典洋(岩波書店)
昔読んだものの再読。「文間」の問題などについて読み返してみたかったのでぱらぱらめくっていたら全部読んでしまった。
大学生を相手にした講義をもとにした本。
文間については、このようなこと。
風通しを良くしたいものだ。
ほかにも、いろいろいい文章が出てくるので、抜き書き。
昔読んだものの再読。「文間」の問題などについて読み返してみたかったのでぱらぱらめくっていたら全部読んでしまった。
大学生を相手にした講義をもとにした本。
文間については、このようなこと。
一つの文と次の文の間、それは怖い。一回、そこに入り込んだらもう出られない。なぜなら、そこから出る理由はないから。いいですか。書いても無駄だ、ということはないでしょ。書こうと思ったら、書けちゃう。だから、飛ばなくてはいけない。そこが悪いところだからそこから一刻も早く外に出なくちゃいけない、というんじゃないんです。そこから外に出る理由なんて何もないから、だから、飛ばなくちゃいけない。出る理由なんて、いつまでたっても出てこない。理由を待っていたら、いつまでも飛べない。だから、飛ぶんです。理由なしに。(p87)
自分の文章がひじょうにうっとおしい。その原因のひとつはたぶん文間からなかなか抜け出せない勇気のなさにある。ふだんから「飛べない」やつは、文章でも飛べないのかなあ。風通しを良くしたいものだ。
ほかにも、いろいろいい文章が出てくるので、抜き書き。
文は書かれるだけではいけない。読まれなければならない。書かれるまでが往きの切符。読まれてからが帰りの切符。その往復で、言葉の旅は終わります。(p11)
いいですか、知っていることを書く、んじゃないんですよ。書くことを通じて何事かを知る、んです。(p13)
美、とはそういう力です。客観的に存在するんじゃない。でも誰もがそう感じるはずだ、という。客観的な裏付けがないにもかかわらず一人一人に確信させる、そういう力。(p16)
文章を書く心得の第一は、自分が書きたいと思ったら、それを書く、ということなんです。
自分との関係が第一。それから、それがひとにどう見えるか、という順序。(p30)
「書き出しは書き手にとって「他者」になれ、ということと、書き終わりは決してそれまで書いたことへの「大河」になるな」(p51)
言葉は、文のところと、文じゃないところ──文間──で、僕たちに何かを伝える、ということになる。二つの力の源泉を持っていることになる。(p92)
絵じゃないものがないと、絵は健全にならない。モチーフは、ヨソから来るもので、いわばそれが絵を殺菌するんです。(p112)
書こうとするときに、その邪魔、障害として現れてくるものを回避したら、絶対にいいものは書けません。書かれる文章に力を与えるのは、その障害、抵抗なんです。(p116)
ぼくは、実感は間違うことがしばしばあるということは認める。でもいい。でも、その実感から始めるのがいいんだ、という考えなのです。(p138)
準備は是非必要ですが、実際に書いてみると、妨害者が現れ、予定通りにいかない、その準備が壊れる、歪むようであってほしいのです。(p189)
「それはそうだが、にもかかわらず、文章を書くことは、そういうすべてを全部忘れて、やりたいようにやっていいのだ」(p207)
加藤典洋の文章は、頭の中のものを文章に変換して差し出すのではなくて、文章にしながら考えているから、文章自体は分かりづらいときが多い。だけど、そういうやり方ってとても信用できるような気がするんだなあ。いいですか、知っていることを書く、んじゃないんですよ。書くことを通じて何事かを知る、んです。(p13)
美、とはそういう力です。客観的に存在するんじゃない。でも誰もがそう感じるはずだ、という。客観的な裏付けがないにもかかわらず一人一人に確信させる、そういう力。(p16)
文章を書く心得の第一は、自分が書きたいと思ったら、それを書く、ということなんです。
自分との関係が第一。それから、それがひとにどう見えるか、という順序。(p30)
「書き出しは書き手にとって「他者」になれ、ということと、書き終わりは決してそれまで書いたことへの「大河」になるな」(p51)
言葉は、文のところと、文じゃないところ──文間──で、僕たちに何かを伝える、ということになる。二つの力の源泉を持っていることになる。(p92)
絵じゃないものがないと、絵は健全にならない。モチーフは、ヨソから来るもので、いわばそれが絵を殺菌するんです。(p112)
書こうとするときに、その邪魔、障害として現れてくるものを回避したら、絶対にいいものは書けません。書かれる文章に力を与えるのは、その障害、抵抗なんです。(p116)
ぼくは、実感は間違うことがしばしばあるということは認める。でもいい。でも、その実感から始めるのがいいんだ、という考えなのです。(p138)
準備は是非必要ですが、実際に書いてみると、妨害者が現れ、予定通りにいかない、その準備が壊れる、歪むようであってほしいのです。(p189)
「それはそうだが、にもかかわらず、文章を書くことは、そういうすべてを全部忘れて、やりたいようにやっていいのだ」(p207)
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『聖少女』を読んだ
2008 / 02 / 02 ( Sat )
『聖少女』倉橋由美子(新潮文庫)
倉橋由美子は『パルタイ』や『スミヤキストQの冒険』を何度か読んだ、好きな作家だが、どういうわけかそれ以上読まなかった。
松岡正剛さんが「千夜千冊」でこの小説を取り上げていたのが読もうとしたきっかけである。つい最近新潮文庫で復刊されていたのでさっそく読んだ。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1040.html
とにかく、テーマは重いのだが、小説としておもしろいのである。
風俗や会話、比喩が近親相姦というテーマと相俟って、小説の面白さを作っている。
のちの金井美恵子と同じような事をやっているようにも思えるし、松岡正剛が言っているとおり、村上春樹の小説の語り口、アプローチにも似ている。
それにしても主人公の一人である「ぼく」の情けなさと言ったらないが、私自身のことを書かれている、と女性の作家の小説で思ったことはなかったので、二倍どきりとした。
倉橋由美子は『パルタイ』や『スミヤキストQの冒険』を何度か読んだ、好きな作家だが、どういうわけかそれ以上読まなかった。
松岡正剛さんが「千夜千冊」でこの小説を取り上げていたのが読もうとしたきっかけである。つい最近新潮文庫で復刊されていたのでさっそく読んだ。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1040.html
とにかく、テーマは重いのだが、小説としておもしろいのである。
風俗や会話、比喩が近親相姦というテーマと相俟って、小説の面白さを作っている。
のちの金井美恵子と同じような事をやっているようにも思えるし、松岡正剛が言っているとおり、村上春樹の小説の語り口、アプローチにも似ている。
それにしても主人公の一人である「ぼく」の情けなさと言ったらないが、私自身のことを書かれている、と女性の作家の小説で思ったことはなかったので、二倍どきりとした。
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