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『くずれる水』『あかるい部屋のなかで』金井美恵子(『ピクニックその他の短篇』所収)
『くずれる水』を読んでいると、昔読んだ蓮實重彦の『陥没地帯』と雰囲気が似ているな、と思った。『陥没地帯』は私が好きな小説のひとつで、何が好きかというと、文章が音楽のようにたゆたっているところが好きなのだ。こういう比喩をすると怒られそうだけれども。何かに向かって突き進む、という小説ではなくて、その瞬間の快楽を味わうための小説、といえばいいのかな。快晴の空の下というよりは、どんよりした曇り空の下の雰囲気。その中で事態が事実かどうか分からないままに進行していく。夢のような、といってしまうとそれは夢として定着されてしまう。むしろ夢かどうかもわからない、現実が夢かも知れないじゃないか、と陳腐なことすらいってしまいたくなるほどにもうろうとした感じに陥る。それがとってもよい。こういう非日常的な雰囲気を書くことができるというのはすばらしいことだな、と思う。
『あかるい部屋のなかで』は私が金井美恵子に親しんだ目白四部作や、『噂の女』といった小説群と文体的に近くなっていて、麻薬的に影響を受ける。たとえば出だしはこんな感じだ。
 折りたたんだ子どもが一人入りそうな大きさのジュラルミン製のトランクを持っていたので、その男がパウダー・ブルーのスーツに黒いニットの細めのタイという、自分を筋肉質で感じよく陽に焼けた業績バツグンのハンサムと思いこんでいる典型的セールスマンの服装をしていたのにもかかわらず、雑誌社か新聞社のカメラマンかカメラマンの助手と思ってしまって、スミレは、廊下に立ってニッコリしている男にむかって、主人は来月まで帰って来ないんですよ、と答えた。(p256)
 こんな感じでワンセンテンスが異常に長く、場合によっては別の話者が同じ文章に入り込んだりする、うねうねした文章が見られるが、これが癖になってくる。自分の文章ですらうねうねとしてまるで蛇のようになってくるが、そういえば蛇のような顔をした女と別れた私の友人は最近まで一年以上も会社を休んでいたのだったけれど、どうしたのだろうか、そういえば私自身も会社は休んだものだった、あのときは復帰するのはけっこう辛かったな、などと思いながらも、自分の文章力と金井美恵子の文章力の差異、というよりもむしろおなじ「文章」などという単語で比べることのばかばかしさかげんにくらくらしながら軽く伸びをするのだった。
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2007年12月16日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『ささやかだけれど、役に立つこと』レイモンド・カーヴァー 村上春樹訳(『大聖堂』所収)
『頼むから静かにしてくれ』がデビュー時の作品を集めたものだったのに比べて、『大聖堂』に収められている諸編は村上春樹の解説によれば、成熟期の作品であるとのことだ。『ささやかだけれど、役に立つこと』をまず読んだけれど、恥ずかしいことだが泣けてきてしまった。すごい。私の能力ではあらすじを拾えないので、村上春樹の解題から引用する。
 平和な家庭をおそう突然の悲劇。誕生日を迎えようとしていた子供が交通事故にあって意識不明になってしまう。両親のショックと不安。前半は子供の死で終わる。(中略)子供を失った夫婦は不気味な電話をかけてきたパン屋を追い詰めていく。まるで死んだ子供の魂を追って暗い冥界に彷徨いこむように、夜更けのパン屋へと彼らは車を走らせる。そこは世界の果てであり、愛の辺境である。そこでは愛が失われ、損なわれている。パン屋は人を愛することをやめ、人に愛されることをやめている。夫婦の方は愛をおしみなく与えたにもかかわらず、その対象は理不尽に唐突に抹殺されてしまった。パン屋にできることは二人のためにパンを焼くことだけだ。それは世界のはしっこにあって「ささやかだけれど、役に立つこと(a small,good thing)なのだ。どれほど役に立つのかは誰にもわからない。でも彼らはそれに変わるなにものも持たないのだ。(p420)
『頼むから静かにしてくれ』が余白が多すぎて私自身の処理に困るというようなことを書いた。『ささやかだけれど、役に立つこと』でも余白はある。しかし作者として小説に対してきちんと責任を取っている、という印象を受ける。作品を放り出すだけではなく、きちんといけるところまで書こうという意志があり、私もそれを受け止めることができる。受け止めすぎてたいへんだよ。とにかくこの小説を読んでカーヴァーのすごさをやっと分かった。すごい。
2007年12月16日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『頼むから静かにしてくれ Ⅰ』レイモンド・カーヴァー 村上春樹訳(中央公論新社)
『考える人』という雑誌の2007年春号で、村上春樹がインタビューを受け、カーヴァーから何を学んだのかという問いにこう答えている。
最後にカーヴァーからぼくが学んだのは、「偉そうじゃない」こと。立派なこと、偉そうなことを書かなくても、書くべきことをきちんと描いていれば、それでりっぱな小説にあるんだということ。もちろんそのためにはうまく書かなくてはならないし、普通の人とは違う視線を持たなくてはならない。でも「そんなもの、プロの小説家なら当たり前のことじゃないか」と前提をつけてしまえば、あとは「当たり前のことを、当たり前にちゃんとやってりゃいいんじゃない」ということになります。その辺の捨て去り方が、カーヴァーはとてもうまい。うまいというか、ものすごいです。人は彼のスタイルをミニマリズムというけれど、そんな段階のものじゃないです。人としての生きる節度みたいなものが、彼の場合凛としている。そしてそれはみんな、きっちり身銭を切って獲得されたものです。しかしまったく偉ぶるところはない。彼の短篇小説は全部そっくり訳したけれど、学ぶところは多かったです。
 マイ「短篇小説」ブームに乗ってカーヴァーを読むことにした。村上春樹は好きでも、短篇小説だ、まさしく「ミニマリズム」だ、という理由でずっと読まないままここまで来てしまっていた。『頼むから静かにしてくれ』は二分冊になっていて、まだ半分を読んだだけだが、やはりもっと早く読むべきだった、と思わざるを得なかった。
 確かに村上春樹のいうとおり、「偉そうじゃない」。小説ではもちろん「偉そう」な小説だって存在していいし、それにひれ伏すことも必要なことなのだが、少なくともカーヴァーはそういう路線を取らなかった。
 それは叙述のスタイルに現れていて、これらの小説はほとんど説明がない。なぜこうなったのか、こうならなくてはいけなかったのか、ということについてわからない。突然小説は終わるが、なぜここで終わらなくてはいけないのか、ということすらわからない。余白がありすぎるのだ。当然その余白を埋めようとする小説も存在するが、カーヴァーは決してそれはしようとしなかった。そしてそのやり方はたぶん成功している。読後、私は余白の処理に正直困ってしまうのだが、解消されるべきものではなく、人の心に澱のように残ってよいのだ、とカーヴァーは考えたのだろうか。
 短篇小説を多く読むことで、夢をたくさん見る代わりをしている、と思って読んでいるけれど、カーヴァーの小説はカフカや坂口安吾とはまた違う種類の夢だった。
2007年12月16日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
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