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『ティモシーの誕生日』ウィリアム・トレヴァー 村上春樹訳(『バースデイ・ストーリーズ』(中央公論新社)所収)
 ウィリアム・トレヴァーという作家は、先日読んだ『千年の祈り』のイーユン・リーがかれの熱心な読者であり、「創作のすべては彼の作品から学んだ」と訳者あとがきで触れられているのを読んで、読んでみようと思った。どういう本があるのか調べてみたら、買ってあったのにほとんど読んでいなかった(まさに短編小説集だから、という理由だけで)『バースデイ・ストーリーズ』に入っていることが分かって、早速読んでみたのだった。
 60代の夫婦、オドとシャーロットは都会に出ている息子のティモシーの誕生日である4月23日に、息子が毎年帰ってくるので、食事の準備をしている。ティモシーは「家には帰れない」と舎弟(?)のエディーを代わりに実家に行かせる。エディーはティモシーの代わりに食事をし、ついでに玄関ホールにあった、銀製のようにもみえる、絡み合った二匹の魚の置物を盗んでいく。
 やはり、短篇のあらすじを書いてみても、あまり意味のないような気がする。この小説は特にそうだ。あらすじでは、とても小さくしか記述されていないが、とても大切なことが抜け落ちてしまうのだ。
 
 それから彼は玄関ホールにあった小さな置物がなくなっていることに気づき、妻に知らせるためにゆっくりと歩いていった。それは客が帰ってから二人が持った最初の接触だった。
「そういうこともあるわ」、またひとしきりの沈黙のあとで、シャーロットは言った。(p70)

「きんぽうげがずいぶんやられた」とオドが言った。
「ほんとに」
 彼女は小さく微笑んだ。そこにあるものを受け入れるしかない。気に病んでもしかたないのだ。彼らは傷つけられたが、それはそうなるべく意図されたことだった。(p73)

 庭を歩いてまわるあいだ、息子の話は持ち出されなかった。庭はすでに二人の手には負えなくなっていたし、あちこちで打ち捨てられていた。彼らのお互いへの愛情に対する嫉妬心が息子の中で育まれ、それが心の歪みへと、残忍さへと繁茂していったのだということも口には出されなかった。今日という日がもたらした痛みは簡単には消えるまい。二人にはそのことは分かっていた。しかしいずれにせよ起こるべくして起こったことなのだ。なぜならそれも、そこにあるものの一部なのだから。(p74)

 引用した箇所は印象に残った部分だが、これは別に老年の夫婦だからこういう諦念に達しました、ということではないだろう。人間として成熟する、とは「それも、そこにあるものの一部なのだから」と理解すること。静かに受け入れること。そのうえで新しく一歩を踏み出せるのかどうか。そこに人間の尊厳とかdecencyといったことが存在するのではないだろうか。静かな、だけどそれだけではない、力のようなものを感じた。
バースデイ・ストーリーズバースデイ・ストーリーズ
(2002/12/07)
レイモンド・カーヴァー、ポール・セロー 他

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2007年12月02日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『夜長姫と耳男』坂口安吾(講談社文芸文庫『桜の森の満開の下』所収)
 最近ずっと短篇小説ばかり読んでいる。しかも一人の作家の短篇集を読むのではなく、ひとつの短篇集のうちの一作品を読み、また別の短篇集の一作品を読む、というつまみ食いみたいなことをしている。
 これはたとえば音楽家のアルバムを聴く際に、作者は全体としてひとつのかたちとなっているものを提示したいのに、そのうちの一曲だけ聴いて、また別の人の曲を聴いて、という感じであまり作者としてはうれしくないのかもしれない。
 ただ、今の私はそうやっていろんな作者の「声」や「世界」を体験することを求めているので、許してもらうことにする。そのうち落ち着いたら誰かの本にすがりつくことになるのだろうけれど。
 今回のこの小説は、一度読んだらそのすごさにはまり、今日一日実は熱を出して寝ていたのだが、ちょっと寝付けないときに久しぶりに読んでみて、またすごさに驚き、ついでに夢にまで出てきたという、とにかく強烈な作品です。
 耳が兎のように大きく、顔は馬のようである「耳男」(ミミオ)は、若い仏像作りの職人。かれがまだ13歳の「夜長姫」が16になるまでに仏像を作る、というはなしだが、「夜長姫」のキャラクターがすごい。笑顔がすばらしい、だけど人の命をもてあそぶ悪魔的な女性であり、「耳男」は彼女を憎みながらも彼女の笑顔に完全に参ってしまう、というような展開。二人の「愛」とは呼べないけれど、だけどやっぱりこれが愛だよな、という関係を坂口安吾は書いた。
 こんな話を読むと、私がいかにふだん切羽詰まって生きていないか、ということを痛感してしまう。
 そして、この話がとても夢に似ていることに気がつく。
 私の大切な友だちは不思議な夢を見る能力がある。誰でも夢は見られるのかもしれないが、それをきちんと文章化できる人はそうはいない。その夢の記述を読ませてもらったが、この小説ととても似ていた。その夢の記述は日常の論理ではあり得ないことを、ただ淡々と記述しているだけだ。そしてそれを逆に日常の論理で補填しようとしないところに潔さを感じたものだ。
 この小説も同じで、日常の論理が使われるのは最低限で、原則的に夢の論理により話が展開していく。耳を切り落とされたりするという事件が起こっても、それはあたりまえのことだとして提示される。それに納得する。さらに話が進んでいく。
 だから、夢を見たのと同じ興奮がこの小説の読後にはあるのだと思った。夢を神話と言い換えてもいいけど、とにかく坂口安吾はとんでもない奥深いところに手が届いていたのだった。とにかくすごい。ラストがとてつもなく美しいが、引用すると読んでいない人に申し訳ないので引用しない。
 なお、この小説は青空文庫でも読めます。
 
桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)
(1989/04)
坂口 安吾

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2007年12月02日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
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