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『文章読本さん江』斎藤美奈子(ちくま文庫)
 斎藤美奈子の本は『妊娠小説』『冠婚葬祭入門』と読んできた。斎藤美奈子の視点や、切り口や、裏付けの史料の膨大さもすばらしいが、何より文体が大好きだ。などと、この『文章読本さん江』を読むと文体のことをうかつには言えなくなってしまうが。
 谷崎潤一郎の『文章読本』から、作家やら評論家やら元新聞記者やらがよってたかって「文章読本」を書いてきた。どうして「文章読本」は書かれなくてはいけなかったのか、ということを近代の作文教育の歴史から掘り下げていった、すごい本。
 とにかく全部がずうっとおもしろいんだけれど、結論としてはこんな感じか。
 原点にもどって考えてみよう。文章読本とは、はて、何なのか。
 私はこういうことではないかと思う。文章とは、いってみれば服なのだ。「文は人なり」なんていうのは役立たずで、ほんとは「文は服なり」なのである。(p327)
文は服である、と考えると、なぜ彼らがかくも「正しい文章」や「美しい文章」の研究に血眼になってきたか、そこはかとなく得心がいくのである。衣装が身体の包み紙なら、文章は思想の包み紙である。着飾る対象が「思想」だから上等そうな気がするだけで、要は一張羅でドレスアップした自分(の思想)を人に見せて誉められたいってことでしょう?女は化粧と洋服にしか関心がないと軽蔑する人がいるけれど、ハハハ、男だっておんなじなのさ。近代の女性が「身体の包み紙」に血道をあげてきたのだとすれば、近代の男性は「思想の包み紙」に血道をあげてきたのだ。彼らがどれほど「見てくれのよさ」にこだわってきた(こだわっている)か、その証明が、並みいる文章読本の山ではなかっただろうか。(p331)
 もちろん私は素人なんだけれど、批判されている側にいるような気がして、ひじょうに居心地が悪い。要はたかが文章でかっこつけすぎじゃん、ということなんですが。まったくもってそのとおり。
 ついでに居心地の悪くなった部分。読書感想文について書かれたところ。
 二つの感想文には同じ特徴がある。第一に、読書体験と「自分の生活体験」を重ね合わせていること。第二に、読書体験によって自分は変わった(変わろうとしている)と述べていること。(p267)
 とうぜん斎藤は批判的な文脈で言っているのだが、これってこのブログのことじゃないの?と思ったりもしたのである。こどもの頃から読書感想文をいやいや書かされてきたことが自分の読書の感想のかたちを作ってしまっていたらしい。まいったね。
 今回この本を読んだことにより、私はこのブログのやり方も変えようと思いました、というのは「読書体験によって自分は変わった(変わろうとしている)と述べていること」だろうなあ。
 とにかくこの本はなかなか避けて通りづらい本です。
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2007年12月29日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
宮沢賢治『よだかの星』
 宮沢賢治の本はこどもの頃から読んでは来たけれど、正直言って『銀河鉄道の夜』とか『風の又三郎』がきちんと読めていたか、というと心許ない。
 また読み直すことにしたけれど、そのなかで『よだかの星』はこどもの頃から読むのがつらい話だった。小学生の低学年の頃、転校ばかりしていて学校にうまくなじめずにいじめられていたことを思い出してしまったからだろうか。
(一たい僕は、なぜこうみんなにいやがられるのだろう。僕の顔は、味噌をつけたようで、口は裂けてるからなあ。それだって、僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない。赤ん坊のめじろが巣から落ちていたときは、助けて巣へ連れて行ってやった。そしたらめじろは、赤ん坊をまるで盗びとからでもとりかえすように僕からひきはなしたんだなあ。それからひどく僕を笑ったっけ。それにああ、今度は市蔵だなんて、首へふだをかけるなんて、つらいはなしだなあ。)
 いじめられている奴でも死ぬときには一瞬だけ光り輝く、そういう話だとを私は読んだのだと思う。
 しかし今回読んでみるとそれだけではない。
 また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、そのとき、急に胸がどきっとして、夜だかは大声を上げて泣き出しました。なきながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。
(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕が今度は鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで飢えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。)
 傷つけられ卑しめられている自分がじっさいには他の誰かを傷つけてしまっている。そんなきつい状況をクリアするためにはどうすればいいか、という難問がここで立てられているのだ。
 よだかが星を目指して五度目で「どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって」行って、カシオペア座の脇でよだかの星として燃え続けることを単純に自らで命を絶った、と読むのはやはりちょっと軽いかな、という気はした。
 宗教の比喩みたいなものがここにはあるのかもしれない。
 だけど、そんな理屈を考えるよりも、やはりこの話は私の胸に届いてしまう。よだかのようだ、と自分を慰めるけれど、よだかほど自分がりっぱでないことがほんとうはつらいのだ。
2007年12月26日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『パルプ』チャールズ・ブコウスキー 柴田元幸訳(新潮文庫)
 以前読んで、今回再読。
 たぶん、初めて読んだときは相当読み飛ばしたのだろうな、と思う。だってこの小説、かなり変なんだ。
 探偵が依頼を受けて解決しようとする、というのが大きな話なのだが、この探偵、「ニック・ビレーンは史上最低の私立探偵である」(訳者あとがき)。
 とりあえずと言って、酒を飲みにいっては酒場でトラブルになり、競馬場に行ってはトラブルになり、仕事をきちんとやっているように思えない。だが、なんだかわけが分からないままいくつかの事件は解決してしまっている。宇宙人の地球侵略も阻止したりしているし。
 しかし、今回じっくり読んでみると、なんだか悲しい小説だった。文章も非情だし、登場人物に対する視線も非情だ。探偵の回りに出てくる人たちはただ通り過ぎるように現れ、去っていく。がらんとした、荒涼とした風景。その中でもがいているだけの「俺」。だけど、生きていくってことはたぶんそんなつまらないことなんじゃないか?と思えてくる。
 文章も、最初はすかすかの、素人みたいな文章だと思ったのだと思うが、読み直したらこれってほとんど詩に近いんじゃないかな、と思うくらいくらくらするかっこよさだった。
 翌日またオフィスに戻った。なんだか物足りない気分だ。正直言って、何もかも嫌気がさしてきた。俺はどこへも進んじゃいないし、世界全部がそうだ。俺たちみんな、ぶらぶらしながら死ぬのを待ってるだけだ。それまでのすきまを埋めようと、あれこれしょうもないことをやっている。しょうもないことさえやってない奴もいる。人間なんて野菜だ。俺だってそうだ。自分がどんな野菜かはわからんが、気分としてはカブだ。俺は葉巻に火をつけて、ふかして、さもわけがわかってるみたいな顔をしてみた。(p237)
 ここは比較的まともなことを言っている。まともなことも言うのだが、あまりまともとも思えないことも言う。じっさい、それも人間であるに違いない。
 表題の『パルプ』とは、かつてアメリカで大量に出版され大量に消費された三文雑誌のことをさす。製紙原料に安価な木材パルプをもっぱら使用したことからこの名がある。(訳者あとがきより)
 人生なんて「パルプ」なのさ。そこからじゃないと何も始まらない。とにかくかっこいい小説だった。
パルプ (新潮文庫)パルプ (新潮文庫)
(2000/03)
チャールズ ブコウスキー

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2007年12月22日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『大聖堂』などを読む
 村上春樹の訳したレイモンド・カーヴァーの短篇集を何冊か買って、順番に読むことをせず、適当に(解説なども参考にしながら)読んでいく。これって好きなミュージシャンのアルバムを何枚か買って、シャッフルで聴いているのとよく似ている。いままでこんな読み方をしたことはなかったが、今はこの読み方がとても気に入っている。
 カーヴァーの小説に出てくる人たちは多かれ少なかれ、うまくいってない。これは以前イーユン・リー『千年の祈り』を読んだときも同じことを書いた。カーヴァーの小説ではそのうまくいかなさが、必ずしも明確になっていない場合もある。なんとなくおかしいな、うまくいかないな、くらいの感じを書くのもうまい。もちろん完全にどん底の状態の人たちもいる。そしてその人たちが小説の中で希望などを与えられるか、というと必ずしもそうではない。というより、たいがいが絶望的なまま投げ出されて小説が終わっている。しかしこれが文学の力、というものだと思うのだが、中途半端な前向きさを見せられるよりは、元も子もない絶望を見せつけられたほうが読んでいる人間に勇気や、やる気や、そこまでいかないにせよ何らかの「兆し」が見えてくることがある。カーヴァーの小説をシャッフルで読んでいて感じるのはそれだ。手垢の付いた言葉で言えば「癒し」だ。なぜカーヴァーの小説を読んでいて癒されてしまうのか、わからない。わたしじしんがまったくうまくいってないことは確かだ(まあ、自分の責任でこんな状況にしたのだが)。しかしカーヴァーの小説に出てくる人たちはうまくいってなくても生きている、それに励まされる、というのはちょっと理屈っぽすぎるかも知れない。
 カーヴァーに出会うのがあまりにも遅すぎたけど、この短篇集=アルバムの小説たちとは死ぬまで今みたいな読み方で、つまりIPODで音楽を聴くみたいにつき合っていくことになる、と思う。リピートしたりしながら。
大聖堂大聖堂
(2007/03)
レイモンド・カーヴァー

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2007年12月20日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『くずれる水』『あかるい部屋のなかで』金井美恵子(『ピクニックその他の短篇』所収)
『くずれる水』を読んでいると、昔読んだ蓮實重彦の『陥没地帯』と雰囲気が似ているな、と思った。『陥没地帯』は私が好きな小説のひとつで、何が好きかというと、文章が音楽のようにたゆたっているところが好きなのだ。こういう比喩をすると怒られそうだけれども。何かに向かって突き進む、という小説ではなくて、その瞬間の快楽を味わうための小説、といえばいいのかな。快晴の空の下というよりは、どんよりした曇り空の下の雰囲気。その中で事態が事実かどうか分からないままに進行していく。夢のような、といってしまうとそれは夢として定着されてしまう。むしろ夢かどうかもわからない、現実が夢かも知れないじゃないか、と陳腐なことすらいってしまいたくなるほどにもうろうとした感じに陥る。それがとってもよい。こういう非日常的な雰囲気を書くことができるというのはすばらしいことだな、と思う。
『あかるい部屋のなかで』は私が金井美恵子に親しんだ目白四部作や、『噂の女』といった小説群と文体的に近くなっていて、麻薬的に影響を受ける。たとえば出だしはこんな感じだ。
 折りたたんだ子どもが一人入りそうな大きさのジュラルミン製のトランクを持っていたので、その男がパウダー・ブルーのスーツに黒いニットの細めのタイという、自分を筋肉質で感じよく陽に焼けた業績バツグンのハンサムと思いこんでいる典型的セールスマンの服装をしていたのにもかかわらず、雑誌社か新聞社のカメラマンかカメラマンの助手と思ってしまって、スミレは、廊下に立ってニッコリしている男にむかって、主人は来月まで帰って来ないんですよ、と答えた。(p256)
 こんな感じでワンセンテンスが異常に長く、場合によっては別の話者が同じ文章に入り込んだりする、うねうねした文章が見られるが、これが癖になってくる。自分の文章ですらうねうねとしてまるで蛇のようになってくるが、そういえば蛇のような顔をした女と別れた私の友人は最近まで一年以上も会社を休んでいたのだったけれど、どうしたのだろうか、そういえば私自身も会社は休んだものだった、あのときは復帰するのはけっこう辛かったな、などと思いながらも、自分の文章力と金井美恵子の文章力の差異、というよりもむしろおなじ「文章」などという単語で比べることのばかばかしさかげんにくらくらしながら軽く伸びをするのだった。
2007年12月16日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『ささやかだけれど、役に立つこと』レイモンド・カーヴァー 村上春樹訳(『大聖堂』所収)
『頼むから静かにしてくれ』がデビュー時の作品を集めたものだったのに比べて、『大聖堂』に収められている諸編は村上春樹の解説によれば、成熟期の作品であるとのことだ。『ささやかだけれど、役に立つこと』をまず読んだけれど、恥ずかしいことだが泣けてきてしまった。すごい。私の能力ではあらすじを拾えないので、村上春樹の解題から引用する。
 平和な家庭をおそう突然の悲劇。誕生日を迎えようとしていた子供が交通事故にあって意識不明になってしまう。両親のショックと不安。前半は子供の死で終わる。(中略)子供を失った夫婦は不気味な電話をかけてきたパン屋を追い詰めていく。まるで死んだ子供の魂を追って暗い冥界に彷徨いこむように、夜更けのパン屋へと彼らは車を走らせる。そこは世界の果てであり、愛の辺境である。そこでは愛が失われ、損なわれている。パン屋は人を愛することをやめ、人に愛されることをやめている。夫婦の方は愛をおしみなく与えたにもかかわらず、その対象は理不尽に唐突に抹殺されてしまった。パン屋にできることは二人のためにパンを焼くことだけだ。それは世界のはしっこにあって「ささやかだけれど、役に立つこと(a small,good thing)なのだ。どれほど役に立つのかは誰にもわからない。でも彼らはそれに変わるなにものも持たないのだ。(p420)
『頼むから静かにしてくれ』が余白が多すぎて私自身の処理に困るというようなことを書いた。『ささやかだけれど、役に立つこと』でも余白はある。しかし作者として小説に対してきちんと責任を取っている、という印象を受ける。作品を放り出すだけではなく、きちんといけるところまで書こうという意志があり、私もそれを受け止めることができる。受け止めすぎてたいへんだよ。とにかくこの小説を読んでカーヴァーのすごさをやっと分かった。すごい。
2007年12月16日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『頼むから静かにしてくれ Ⅰ』レイモンド・カーヴァー 村上春樹訳(中央公論新社)
『考える人』という雑誌の2007年春号で、村上春樹がインタビューを受け、カーヴァーから何を学んだのかという問いにこう答えている。
最後にカーヴァーからぼくが学んだのは、「偉そうじゃない」こと。立派なこと、偉そうなことを書かなくても、書くべきことをきちんと描いていれば、それでりっぱな小説にあるんだということ。もちろんそのためにはうまく書かなくてはならないし、普通の人とは違う視線を持たなくてはならない。でも「そんなもの、プロの小説家なら当たり前のことじゃないか」と前提をつけてしまえば、あとは「当たり前のことを、当たり前にちゃんとやってりゃいいんじゃない」ということになります。その辺の捨て去り方が、カーヴァーはとてもうまい。うまいというか、ものすごいです。人は彼のスタイルをミニマリズムというけれど、そんな段階のものじゃないです。人としての生きる節度みたいなものが、彼の場合凛としている。そしてそれはみんな、きっちり身銭を切って獲得されたものです。しかしまったく偉ぶるところはない。彼の短篇小説は全部そっくり訳したけれど、学ぶところは多かったです。
 マイ「短篇小説」ブームに乗ってカーヴァーを読むことにした。村上春樹は好きでも、短篇小説だ、まさしく「ミニマリズム」だ、という理由でずっと読まないままここまで来てしまっていた。『頼むから静かにしてくれ』は二分冊になっていて、まだ半分を読んだだけだが、やはりもっと早く読むべきだった、と思わざるを得なかった。
 確かに村上春樹のいうとおり、「偉そうじゃない」。小説ではもちろん「偉そう」な小説だって存在していいし、それにひれ伏すことも必要なことなのだが、少なくともカーヴァーはそういう路線を取らなかった。
 それは叙述のスタイルに現れていて、これらの小説はほとんど説明がない。なぜこうなったのか、こうならなくてはいけなかったのか、ということについてわからない。突然小説は終わるが、なぜここで終わらなくてはいけないのか、ということすらわからない。余白がありすぎるのだ。当然その余白を埋めようとする小説も存在するが、カーヴァーは決してそれはしようとしなかった。そしてそのやり方はたぶん成功している。読後、私は余白の処理に正直困ってしまうのだが、解消されるべきものではなく、人の心に澱のように残ってよいのだ、とカーヴァーは考えたのだろうか。
 短篇小説を多く読むことで、夢をたくさん見る代わりをしている、と思って読んでいるけれど、カーヴァーの小説はカフカや坂口安吾とはまた違う種類の夢だった。
2007年12月16日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『愛の生活/森のメリュジーヌ』『ピクニック、その他の短篇』など
 短篇拾い読みはカフカから金井美恵子にまで手が伸びた。金井美恵子というと最近はうねうねとつづく文体で、事細かな描写がある種の特徴だ、と思うけれど(変なことを言うとすぐ怒られそうだが)、小説デビューの『愛の生活』などでは誰にでも読みやすい文体だった。『アカシア騎士団』とか『プラトン的恋愛』といった小説になると、文体も今のものと似てくるし、小説の内容も素朴ではなくいわば「メタ小説」、つまり小説というテキストについて言及する小説となっていて、一筋縄ではいかなくなってくる。
『ピクニック』に至ると、とても短い小説なのに、難解すぎて一度読んだだけでは構造がまったく理解できなくなる。頭が悪いんです。すみません。
 しかし、こういう仕掛け、実験がある短篇小説というのも悪くない。というより、本来こういう形式の小説が好きだったりする。単なるスケッチで、文体だけで読ませる短篇にはもちろん味があって好きだけれど、要は何かオチみたいなものがあるほうがさらに好きだな、ということである。
 金井美恵子の小説は何よりその文体が読んでいる私をあっという間にその影響下に入れてしまうところがすごいし、こわい。もうちょっと別の小説を読んで毒消しでもしなくてはいけない気がしてきます。
愛の生活 森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)愛の生活 森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)
(1997/08)
金井 美恵子

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ピクニック、その他の短篇 (講談社文芸文庫)ピクニック、その他の短篇 (講談社文芸文庫)
(1998/12)
金井 美恵子

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2007年12月09日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『処女の泉』イングマール・ベルイマン監督
 宗教的であり、神話的な映画である。
 山の中で二人の男に若い娘が強姦され殺される。娘の帰りが遅いと心配する家族のもとにその犯人たち(二人に加えて一緒にいた幼い少年)が泊めてもらいたいと訪れた。男が売りたいと差し出した服は娘の着ていた絹の服で、父親は娘がこの男たちに殺されたことを知る。肉切り包丁などで男たちを殺し、少年までもたたき殺してしまう。山に捨てられていた娘を父が抱き上げると、その途端そこから水があふれ出す。
 神話なので、シンプルなあらすじである。しかし深い。
 もともと宗教的な雰囲気が映画を包み込んでいるが、父親が犯人を殺す準備をし始めるあたりから荘厳な感じが深まっていく。風呂に入って身を清めて(枝でぱしぱし身体を叩く!)、包丁を用意させ、といったひとつひとつの振る舞いが宗教的なのである。これはすごい。見ているうちに旧約聖書の世界に入り込んでいくようなのだ。父親がまた彫刻みたいな顔をしていて威厳がある。のっぺりした自分と比べるとなんという違いであろうか。
 神に、娘が殺され、自分が復讐(しかも少年までも)したのを見ていたのに、なぜ何もしてくれなかったのか、と少しだけうらみつらみを言うが、それでも神を信じる、と言い続ける父親、そして奇跡のように娘の亡骸を抱き上げた瞬間にあふれ出す泉。宗教についてうらやましく思えるのはこういう場面だが、映画は宗教以上にこういうことをリアルに描き出せるということがすばらしいのだ。
処女の泉処女の泉
(2000/04/25)
マックス・フォン・シードウ

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2007年12月09日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | 映画 | Top↑ |
『野いちご』イングマール・ベルイマン監督
 最近考えていることは夢と、ノスタルジー(もしくは後悔)と、死だが、この映画はそれをすべて網羅した映画だ。
 主人公は79歳の老教授で、大学で名誉教授の称号を受けることになっている。朝、棺桶から自分が自分を引きずり込もうとする悪夢を見て、飛行機で大学まで行く予定をキャンセルし、息子の妻とともに車で大学へ向かう。その途中で若い三人の男女、壊れそうな中年夫婦と出会う。ロードムービーの体裁だが、何よりも挿入される夢がすばらしい。若い頃、つき合っていた従妹が裏切って自分の弟を選ぶという事件から生まれた夢。妻が密通をしているのを見てしまった事件から生まれた夢。そしてそれらの事件の根底にはが自分じしんの冷たさがあるということを思い知らされる夢。
 自分の夢を振り返ると、たいていの夢では私はいつも無力だ。だいたいにして~ができない、という状態に置かれている。たとえばどうしても話すことができない、とか、電車に乗ることができない、とか。この映画の夢はそれと似ていて、どうしても文字を理解することができないとか顕微鏡を見ることができない、とか、何よりも自分が見ているのにもかかわらず目の前で起きている事件に対して無力であったりする。それを見ているとつらいけれど、夢らしさがきちんと画面にとらえられていて、どうしても目が離せない。映画を見ている私、それは夢そのものの構造だ。
 老年に向かうということは、基本的に悲しみの中で生きることを受け入れて、しかし、少しのノスタルジーと若者に対する希望によって生きることなのだろうか。
 ベルイマン監督の作品は初めて見たが、すばらしい。
 関係ないけど、スウェーデン語って初めてきちんと聞いた気がする。きれいな言葉だ。
野いちご野いちご
(2001/07/25)
ヴィクトル・シェストレム、イングリッド・チューリン 他

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2007年12月07日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | 映画 | Top↑ |
『誕生日の子どもたち』トルーマン・カポーティ 村上春樹訳(文藝春秋)
 こんなに美しい小説が世の中にはあるんだなあ、とため息が出るほどだ。カポーティは恥ずかしながらまだ読んだことがなかった。『冷血』というノンフィクションを噂で聞いていたし、晩年のインチキくさいおやじの写真を見ると、どうも読む気がしなかった。しかし村上春樹が影響を受けた小説家としてフィッツジェラルド、レイモンド・カーヴァーと並んでカポーティの名を上げているのを見るたびに、いつかは読まなくてはいけない、と本を少しずつ集めてきた。
 そして、この本から入った。ああ、もっと早く読んでおけば良かった、と悔やまざるを得なかった。

 ここに収められたトルーマン・カポーティの六編の短篇小説は、それぞれに少年や少女の無垢さ=イノセンスをテーマにして書かれた物語である。お読みになっていただければわかるように、そこに描かれたイノセンス=無垢さはある場合には純粋で強く美しく、同時にきわめて脆く傷つきやすく、またある場合には毒を含んで残酷である。誰もが多かれ少なかれ、人生の出だしの時期にそのような過程をくぐり抜けてくるわけだが、中にはわずかではあるけれど、成人して年を重ねてもその無垢なる世界をほとんど手つかずのまま抱え込んでいる人もいる。トルーマン・カポーティはまさにそういうタイプの人であり、作家であった。(p241「訳者あとがき」)

 私は、すでに無垢さを失ってしまっているから、リアルに描かれたこのイノセンスをテーマにした小説にここまで惹かれてしまうのだろう。リアルすぎて、ほんとうにつらいくらいだ。胸が痛む、ってやつだ。
 そして、その上に文章が美しい。『無頭の鷹』で、イノセンスの化身のような不思議で、かつ恐ろしい女の子が出てくる。彼女の描いた絵。
 修行僧のような着衣に身を包んだ、頭のない人物がみすぼらしい大型の衣装トランクの上に偉そうによりかかっていた。その女は片手に煙を立てる青い蝋燭を持ち、もう片手に金色の小さな檻をさげていた。彼女の切断された首は足もとに置かれ、血を流していた。この娘自身の首だったが、髪は長い。非常に長い。水晶を思わせるきかん気な目をした雪玉のように真っ白な子猫が、床に広がった髪の先を、まるで毛糸玉か何かのように、前足でいじって遊んでいた。緋色の胸と胴色の爪を持った無頭の鷹が翼を広げ、夕暮れの空のように背後を覆っていた。(p169)
 そして彼女と暮らすことに耐えられなくなってしまった主人公の家に蝶が現れ、部屋に飾ってある彼女の絵とすれ違う。
 蝶は彼女の絵の上にふわりととまり、水晶の目の上を這って横切り、切断された首の上にリボン飾りのように羽を広げた。彼は娘のスーツケースをひっかきまわして鋏をみつけた。それで蝶々の羽を切ってしまうつもりだったが、蝶々はくるくると渦を巻いて天井まで上り、星みたいな格好でそこにとまった。鋏は鷹の心臓に突きささり、それからまるで貪欲な鋼鉄のくちばしのようにキャンバスを食い破った。硬い髪を切ったときのように絵の断片が床に舞った。彼は床に膝をついて、絵の切れはしをかきあつめ、それをスーツケースの中に放り込んだ。そしてふたをばたんと閉めた。彼は泣いていた。涙の粒を通して、天井の蝶々はずっと大きく見えた。鳥のように大きく、数も増えている。一群の黄色が軽やかにまばたきするように羽ばたいているのだ。その孤独な囁きは浜辺を洗う波に似ていた。そして彼らの立てる風は部屋全体を虚空に向けて吹きとばしてしまった。(p201)
 書いているだけでうっとりしてしまう文章だ。映像的な文章だし、比喩も美しい。もちろん訳者の文体もあるとは思うが、訳者によれば原文もとても美しいらしい。いつかは原文でも読んでみたいものです。今読めないならこの先も読めないような気はしますが。
誕生日の子どもたち誕生日の子どもたち
(2002/05)
トルーマン カポーティ

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2007年12月06日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『流刑地にて』など カフカ 池内紀訳
 白水社から出ているカフカコレクション全八巻のうち、四冊は短い小説、もしくはまさに「断片」といった文章を集めたものになっている。
 ときおりその中の文章を気が向いたときに拾い読みするのが、今のちょっとした習慣になっている。
 カフカは、ずっと言われていることだろうが、「夢」のように文章を書いた。そして、短篇や掌篇といった短い物になればなるほど、その傾向が如実に現れる。
 私は夢を見るのが下手だ。だが、ときおり夢を見ればカタルシスが得られる。夢を見る代わりにカフカの短い文章を読んでいるようなところがある。
 短篇を要約するのは苦手だし、特にカフカの短篇はかなりむずかしそうだ。
 今はただ、そういうものを読んでいる、と言うことだけを書いておくことにする。
流刑地にて―カフカ・コレクション (白水uブックス)流刑地にて―カフカ・コレクション (白水uブックス)
(2006/07)
フランツ カフカ

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2007年12月04日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『ティモシーの誕生日』ウィリアム・トレヴァー 村上春樹訳(『バースデイ・ストーリーズ』(中央公論新社)所収)
 ウィリアム・トレヴァーという作家は、先日読んだ『千年の祈り』のイーユン・リーがかれの熱心な読者であり、「創作のすべては彼の作品から学んだ」と訳者あとがきで触れられているのを読んで、読んでみようと思った。どういう本があるのか調べてみたら、買ってあったのにほとんど読んでいなかった(まさに短編小説集だから、という理由だけで)『バースデイ・ストーリーズ』に入っていることが分かって、早速読んでみたのだった。
 60代の夫婦、オドとシャーロットは都会に出ている息子のティモシーの誕生日である4月23日に、息子が毎年帰ってくるので、食事の準備をしている。ティモシーは「家には帰れない」と舎弟(?)のエディーを代わりに実家に行かせる。エディーはティモシーの代わりに食事をし、ついでに玄関ホールにあった、銀製のようにもみえる、絡み合った二匹の魚の置物を盗んでいく。
 やはり、短篇のあらすじを書いてみても、あまり意味のないような気がする。この小説は特にそうだ。あらすじでは、とても小さくしか記述されていないが、とても大切なことが抜け落ちてしまうのだ。
 
 それから彼は玄関ホールにあった小さな置物がなくなっていることに気づき、妻に知らせるためにゆっくりと歩いていった。それは客が帰ってから二人が持った最初の接触だった。
「そういうこともあるわ」、またひとしきりの沈黙のあとで、シャーロットは言った。(p70)

「きんぽうげがずいぶんやられた」とオドが言った。
「ほんとに」
 彼女は小さく微笑んだ。そこにあるものを受け入れるしかない。気に病んでもしかたないのだ。彼らは傷つけられたが、それはそうなるべく意図されたことだった。(p73)

 庭を歩いてまわるあいだ、息子の話は持ち出されなかった。庭はすでに二人の手には負えなくなっていたし、あちこちで打ち捨てられていた。彼らのお互いへの愛情に対する嫉妬心が息子の中で育まれ、それが心の歪みへと、残忍さへと繁茂していったのだということも口には出されなかった。今日という日がもたらした痛みは簡単には消えるまい。二人にはそのことは分かっていた。しかしいずれにせよ起こるべくして起こったことなのだ。なぜならそれも、そこにあるものの一部なのだから。(p74)

 引用した箇所は印象に残った部分だが、これは別に老年の夫婦だからこういう諦念に達しました、ということではないだろう。人間として成熟する、とは「それも、そこにあるものの一部なのだから」と理解すること。静かに受け入れること。そのうえで新しく一歩を踏み出せるのかどうか。そこに人間の尊厳とかdecencyといったことが存在するのではないだろうか。静かな、だけどそれだけではない、力のようなものを感じた。
バースデイ・ストーリーズバースデイ・ストーリーズ
(2002/12/07)
レイモンド・カーヴァー、ポール・セロー 他

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2007年12月02日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『夜長姫と耳男』坂口安吾(講談社文芸文庫『桜の森の満開の下』所収)
 最近ずっと短篇小説ばかり読んでいる。しかも一人の作家の短篇集を読むのではなく、ひとつの短篇集のうちの一作品を読み、また別の短篇集の一作品を読む、というつまみ食いみたいなことをしている。
 これはたとえば音楽家のアルバムを聴く際に、作者は全体としてひとつのかたちとなっているものを提示したいのに、そのうちの一曲だけ聴いて、また別の人の曲を聴いて、という感じであまり作者としてはうれしくないのかもしれない。
 ただ、今の私はそうやっていろんな作者の「声」や「世界」を体験することを求めているので、許してもらうことにする。そのうち落ち着いたら誰かの本にすがりつくことになるのだろうけれど。
 今回のこの小説は、一度読んだらそのすごさにはまり、今日一日実は熱を出して寝ていたのだが、ちょっと寝付けないときに久しぶりに読んでみて、またすごさに驚き、ついでに夢にまで出てきたという、とにかく強烈な作品です。
 耳が兎のように大きく、顔は馬のようである「耳男」(ミミオ)は、若い仏像作りの職人。かれがまだ13歳の「夜長姫」が16になるまでに仏像を作る、というはなしだが、「夜長姫」のキャラクターがすごい。笑顔がすばらしい、だけど人の命をもてあそぶ悪魔的な女性であり、「耳男」は彼女を憎みながらも彼女の笑顔に完全に参ってしまう、というような展開。二人の「愛」とは呼べないけれど、だけどやっぱりこれが愛だよな、という関係を坂口安吾は書いた。
 こんな話を読むと、私がいかにふだん切羽詰まって生きていないか、ということを痛感してしまう。
 そして、この話がとても夢に似ていることに気がつく。
 私の大切な友だちは不思議な夢を見る能力がある。誰でも夢は見られるのかもしれないが、それをきちんと文章化できる人はそうはいない。その夢の記述を読ませてもらったが、この小説ととても似ていた。その夢の記述は日常の論理ではあり得ないことを、ただ淡々と記述しているだけだ。そしてそれを逆に日常の論理で補填しようとしないところに潔さを感じたものだ。
 この小説も同じで、日常の論理が使われるのは最低限で、原則的に夢の論理により話が展開していく。耳を切り落とされたりするという事件が起こっても、それはあたりまえのことだとして提示される。それに納得する。さらに話が進んでいく。
 だから、夢を見たのと同じ興奮がこの小説の読後にはあるのだと思った。夢を神話と言い換えてもいいけど、とにかく坂口安吾はとんでもない奥深いところに手が届いていたのだった。とにかくすごい。ラストがとてつもなく美しいが、引用すると読んでいない人に申し訳ないので引用しない。
 なお、この小説は青空文庫でも読めます。
 
桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)
(1989/04)
坂口 安吾

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2007年12月02日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
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