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『スプートニクの恋人』村上春樹(講談社)
 久しぶりに読み返してみた。短いけど、悲しい話です。

 ぼくはこの小さなギリシャの島で、昨日初めて会ったばかりの美しい年上の女性と二人で朝食をとっている。この女性はすみれを愛している。しかし性欲を感じることはできない。すみれはこの女性を愛し、しかも性欲を感じている。ぼくはすみれを愛し、性欲を感じている。すみれは僕を好きではあるけれど、愛していないし、性欲を感じることもできない。ぼくは別の匿名の女性に性欲を感じることはできる。しかし愛してはいない。とても入り組んでいる。まるで実存主義演劇の筋みたいだ。すべてのものごとはそこで行き止まりになっていて、誰もどこにも行けない。選ぶべき選択肢がない。そしてすみれが一人で舞台から姿を消した。(p179)

ギリシャの島で、煙のように消えてしまったすみれ。恋人にはなれなかったにせよ、ぼくにとって大切な大切な友だちだった。その大切な友だちを失うこと。大切な人間を失うということはどういうことなのか。正しいとか誤っているとかではなく、とにかく人は人と突然出会い、そして突然失ってしまうのだ。失ってしまったもの-究極的には死者だが-、と私はどうつながろうとすればいいのか。
 小説の最後。

 ぼくは夢を見る。ときどきぼくにはそれがただひとつの正しい行為であるように思える。夢を見ること、夢の世界に生きること-すみれが書いていたように。でもそれは長くはつづかない。いつか覚醒がぼくをとらえる。
 ぼくは夜中の三時に目を覚まし、明かりをつけ、身を起こし、枕もとの電話機を眺める。電話ボックスの中で煙草に火をつけ、プッシュ・ボタンでぼくの電話番号を押しているすみれの姿を想像する。髪はくしゃくしゃで、サイズの大きすぎる男物のヘリンボーンのジャケットを着て、左右違った靴下をはいている。彼女は顔をしかめ、ときどき煙にむせる。番号を正しく最後まで押すのに時間がかかる。でも彼女の頭の中にはぼくに話さなくてはならないことが詰まっている。朝までかかってもしゃべりきれないかもしれない。たとえば象徴と記号の違いについて。電話機は今にも鳴り出しそうに見える。でもそれが鳴ることはない。ぼくは横になったまま、沈黙を続ける電話機をいつまでも眺めている。(p305)

申し分のないエンディングのように思われる。しかし小説はつづく。

 でもあるとき電話のベルが鳴りだす。ぼくの目の前で本当に鳴りだしたのだ。それは現実の世界の空気を震わせている。ぼくはすぐに受話器を取った。
「もしもし」
「ねえ帰ってきたのよ」とすみれは言った。とてもクールに。とてもリアルに。(p306)
(中略)
 そして唐突に電話が切れた。ぼくは受話器を手にしたまま、長い間眺めている。受話器という物体そのものがひとつの重要なメッセージであるみたいに。その色やかたちに何か特別な意味が込められているみたいに。それから思いなおして、受話器をもとに戻す。ぼくはベッドの上に身を起こし、もう一度電話のベルが鳴るのを待ちつづける。壁にもたれ、目の前の空間の一点に焦点をあわせ、ゆっくりと音のない呼吸をつづける。時間と時間のつなぎ目を確認しつづける。ベルはなかなか鳴りださない。約束のない沈黙がいつまでも空間を満たしている。しかしぼくには準備ができている。ぼくはどこにでも行くことができる。
 
 そうだね
 
 そのとおり
 
 ぼくはベッドを出る。日焼けした古いカーテンを引き、窓を開ける。そして首を突き出してまだ暗い空を見上げる。そこにはまちがいなく黴びたような色あいの半月が浮かんでいる。これでいい。僕等は同じ世界の同じ月を見ている。僕等は確かにひとつの線で現実につながっている。ぼくはそれを静かにたぐり寄せていけばいいのだ。(p307)

引用が長くてすみません。
 失ってしまったものとどうつながるか。小説をここまで読み続けると、ことばにはできないけれど、確かにつながる方法がある、という確信を私は得ることができる。ことばにできないというのもずるいので、失敗を覚悟でことばにしてみると、それは「夢」を見る、という能力ではないか。しかも目覚めながら。夢の世界では失った人々と自由に会うことができる。つながっていられる。しかし「いつか覚醒がぼくをとらえる」のである。そのときの喪失感はさらに強い。だが、覚醒しながら夢を見られるとすればどうか。そんな能力はない?幻視者か?うーん。そういうことではないんだが、うまくいえないなあ。
 「ぼく」が大学生の夏休みにひとりで旅行しているときに知り合った年上の女性との話をすみれに話しているときに出てくる会話。

「その話のポイントはどこにあるのかしら?」とすみれはそのときたずねた。
「注意深くなる、というのが話のポイントだよ、たぶん」とぼくは言った。「最初からああだこうだとものごとを決めつけずに、状況に応じて素直に耳を澄ませること、心と頭をいつもオープンにしておくこと」(p61)

相変わらずうまくは言えないが、たとえば別れた人からもらった腕時計を見るたびにその人を思い出す、というまったくつまらないことだって、考えてみると失った人とつながっていると言えるのじゃないだろうか。ただの時計、と突き放すのではなくて、人との関係が満ちあふれている、と言うことに気付くこと。意外とひとりではないということ。それが覚醒しながら夢を見るということだろうか。かなり無理があるな。村上春樹がそんなことを言おうとしているのかは知らない。たぶんまったく違うんだろう。やはり、そもそもそんな風にことばにすべきことではないのでしょうね。ことばにならない力をこの小説は与えてくれる。悲しいけれども希望が湧く小説です。







スプートニクの恋人 スプートニクの恋人
村上 春樹 (1999/04)
講談社

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2007年11月13日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『日本の歴史をよみなおす』網野善彦(ちくま学芸文庫)
 網野さんの本を読むのは、『日本社会の歴史』(岩波新書)に続いてです。中沢新一さんに『僕の叔父さん 網野善彦』という本がありますが、そのとおりで、中沢さんは網野さんの甥となります(血縁関係はない)。
  『日本社会の歴史』は日本通史といった観があり、勉強になりました。その中でも特に、鎌倉時代が、東を幕府が、西を朝廷がそれぞれ分立して支配している状態だった、というのを恥ずかしながら初めて教えてもらいました。1192かまくらばくふ、で鎌倉が全国を統一した、と思いこんでいたのです。
 さて、この本は講義録ということで非常に読みやすい本になっています。

  つまり、ほぼ十四世紀に南北朝の動乱という大きな変動がありますが、、それを経たあとと、それ以前の十三世紀以前の段階とでは、非常に大きなちがいがある。十五世紀以降の社会のあり方は、私たちの世代の常識で、ある程度理解が可能ですが、十三世紀以前の問題になると、どうもわれわれの常識ではおよびもつかない、かなり異質な世界がそこにはあるように思われます。(p14)

前半部分のテーマは引用したこの部分に集約されているように思えます。そして現代の社会の成り立ちというものを考えるときに、どのように過去、歴史にアプローチすべきか、ということを網野さんは何度も言います。  例えば「非人」について。十三世紀までは非人と呼ばれる集団は「清め」を職能とした神仏に近い集団であったのが、次第に差別の対象となり、江戸時代に被差別の対象として固定されてしまった経緯を調べ、次のように説明します。

  十四世紀以前の「穢れ」は、前にも触れてきましたが、ある種の畏怖、畏れをともなっていたと思いますが、十四世紀の頃、人間と自然とのかかわり方に大きな変化があり、社会がいわばより「文明化」してくる、それとともに「穢れ」に対する畏怖感はうしろに退いて、むしろ「汚穢」、きたなく、よごれたもの、忌避すべきものとする、現在の常識的な穢れに近い感覚に変わってくると思います。(p138)

このように、十四世紀以前とそのあととでは人間の認識がまるで違った可能性があるわけです。『陰陽師』では安倍晴明が式神を操っていて、あんなことはあり得なかった、と否定は簡単にできますが、そもそも世界がどう見えていたのかということを考えると、ああいう世界も日本にはあったのかも知れません。  他にも「女性」も同様に決してずっと虐げられていた立場ではなく、むしろ商工業でリーダーシップすらとっていた立場だったことを強調します。  いちばん気になったのは宗教のことでした。鎌倉新仏教が十四世紀の社会の大きな転換の中で、力を持っていきながら、どうしておとろえてしまったのかということについて。

  しかし日本の社会の場合、十六世紀に入ってきたキリスト教を含む、こうした新しい宗教は、結局十六世紀から十七世紀にかけての織田信長、豊臣秀吉、さらに江戸幕府による血みどろの大弾圧によって、独自な力を持つことができないようになってしまいます。どうしてそうなってしまうのか。じつはこれが日本の社会の問題を考える場合に、いちばん大きな問題のひとつなのだと思います。(P79)

以前『日本仏教史』という本を読んだときも、現代日本でなぜ宗教がこれだけ力を持たないのか、ということが書かれていた気がしますが、ようやく意味が少し分かってきました。私じしんが宗教を持つということにずっと拒否してきました。しかし非宗教であると言うこと自体がむしろ近世の支配者の宗教弾圧に根を発するものなのかも知れない、という視点で見直したときに、宗教を単に拒絶するだけでいいのかということをもう少し考えるべきではないか、と思ったのです。
  本の後半では「百姓」というのは農民だけを差すのではない、単なる平民のことなのだ、ということから入っていきます。フィールドワークによって学者も誰も疑わなかった百姓=農民という定義を覆していきます。百姓の中には農民も漁民も、それに海運業者や塩を作っている人たちも入っているのです。

  これまでの歴史研究者は百姓を農民と思いこんで史料を読んでいましたので、歴史家が世の中にて今日していた歴史像が、非常にゆがんだものになってしまっていたことは、疑いありません。これは江戸時代だけでなく中世でも同じですし、古代にさかのぼってもまったく同様です。百姓は決して農民と同じ意味ではなく、農業以外の生業を主として営む人々-非農業民を非常に数多くふくんでいることを、われわれはまず確認した上で、日本の社会をもう一度考えなおさなくてはならないと思います。(p255)

  いずれにせよ、こういう日本史の先生に教わっていれば、もう少し歴史については興味を持って勉強していたのに違いない、と思うと少し悔しい思いがします。ただ、網野さんの本についてはまだまだ読むべき本がありますので、遅まきながら勉強していきたいと思います。また、網野さんは過去をほじくり返すのではなく、今の日本の成り立ちを照射するために歴史を勉強していかなければならない、となんども繰り返します。常識的な目で見た現代を別の切り口で見直すためにも歴史の勉強は不可欠なように思います。







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網野 善彦 (2005/07/06)
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2007年11月13日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
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