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『プールサイド小景・静物』庄野潤三(新潮文庫)
 高校生の頃は友だちのいない、いやなやつだったから(今もあまりいいやつとは思えないけど)、『現代国語便覧』といった現代国語(そんな教科は今も存在するのだろうか)の副読本に載っていた芥川賞歴代授賞作とか、近代文学年表に載っている作品を読んでは、そこに印を付けた。でなければ、こんな本をたぶん読むことはなかっただろう。文庫の奥付は昭和57年4月30日 24刷と書いてある。
 この本も村上春樹の短篇案内に導かれて再読した。文庫に収録されているうち『舞踏』『プールサイド小景』『静物』を読んだ。ちなみに庄野潤三は『プールサイド小景』で第32回芥川賞を受賞している。
 村上春樹はこの三作についてこう言っている。
「舞踏」と「プールサイド小景」といった初期の作品を初めて読んだ人はおそらく、「この人がこういう方向でこれからどんどん成熟して伸びていけば、ほんとうにすばらしい小説家になるんだろうな」と考えるのではないでしょうか。そのような来たるべき小説を手にとって読んでみたいと思う。僕もそう思いました。ところがそういう方向には行かない。
「静物」に行っちゃうわけです。
 いや、僕は何もそれを非難しているわけではありません。「静物」は文句なく素晴らしい作品だし、僕は大好きです。ただ、ああ、行っちゃったんだなと、それだけです。(『若い読者のための短篇小説案内』p131)
『舞踏』や『プールサイド小景』と『静物』とは同じ家族、しかも若い夫婦を中心とした話であるけれど、前の二つの作品がどこかで社会つながろうとする、ピュアでないものを含んでしまっているようにみえるのに対し、『静物』はまさに静物画のように、その小説として完結し、不要なものは排除してしまっているようにみえる。
『静物』の文体はまさに「そぎ落とされた」という感じで、それに対しつっこむべきところはなにもない、というほどある意味では完成されているように思える。
 しかし、あまり元気のないときに『静物』を読むと、かえって滅入ってしまうような気がする。というか、滅入った。自分に余裕があれば、まさに絵を「鑑賞」するように読むことができるのだろうが、やはり読みどきというものがある。『千年の祈り』のような、ハードな短篇集のほうが力を与えてくれるような気がする。
 もちろん、日本語として、また、短篇小説としてはひとつの達成ということはまちがいないのであって、これを利用することは可能と思われる。いずれにせよ、また改めます。
 それにしても気になるのは、夫婦の機微やらを書いたこれらの小説を、高校生の私がいったいどう読んだのか、ということだ。たぶん何も読んでいなかったのだろう。
プールサイド小景・静物プールサイド小景・静物
(1965/02)
庄野 潤三

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2007年11月26日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『ガラスの靴』安岡章太郎(講談社文芸文庫『ガラスの靴 悪い仲間』所収)
 村上春樹『若い読者のための短篇案内』で紹介されていた作品。
 あらすじは同書で触れられていたけれども、作品を読んでみると、明晰な文体で書かれた切迫する内容に驚く。夏休みという限られた時間内での「僕」と「悦子」の恋愛には結びつかない遊戯。そしてあっけなく終わる二人の関係。寓話と言っていいのか。普遍的な物語であるように思われた。
 夏休みが終わり、悦子が去り、「僕」は勤め先の猟銃店に戻る。

 N猟銃店の一切は、以前と何の変りもない。ぼくにはそれが不思議だった。今は僕は、ほとんど居眠りばかりしている。もう何もする気もしなくなった。
 僕は、うつらうつらしながら眼をあけて、ふと机の上の電話器が気になる。僕はガバと起きなおって、いきなり受話器を耳にあてる。
「・・・・・・・・・・・・」
 何もきこえはしない。しかし僕は、それでも受話器をはなさない。耳たぶにこすりつけてジッと待つ。するとやがて、風にゆられて電線のふれあうようなコーンというかん高い物音が、かすかに耳の底をくすぐる。それはむろん、言葉ではない。しかし、だんだんに高まるその音は、声のようではある。いったいそれは、僕に何をささやこうとするのか。
 僕はいつまでも受話器をはなさない。ダマされていることの面白さに駆られながら。(p32)

エンディングは失われたものへのつながりを求めている象徴に思える。と同時に、村上春樹『スプートニクの恋人』の最後の部分とつながってくるようだ。

 そして唐突に電話が切れた。ぼくは受話器を手にしたまま、長い間眺めている。受話器という物体そのものがひとつの重要なメッセージであるみたいに。その色やかたちに何か特別な意味が込められているみたいに。それから思いなおして、受話器をもとに戻す。ぼくはベッドの上に身を起こし、もう一度電話のベルが鳴るのを待ちつづける。壁にもたれ、目の前の空間の一点に焦点をあわせ、ゆっくりと音のない呼吸をつづける。時間と時間のつなぎ目を確認しつづける。ベルはなかなか鳴りださない。約束のない沈黙がいつまでも空間を満たしている。しかしぼくには準備ができている。ぼくはどこにでも行くことができる。(『スプートニクの恋人』(p307))

失われた者と残された者、お互いがつながりを求めつづけること。つながれない、ということからしかつながることへの道が通じないこと。オカルトみたいだけれど、小説の探し続ける大きな問題のひとつはたぶんそこにある。そしてそんなことがいったい可能なのか、知りたくて私は小説を読みつづけている。







ガラスの靴・悪い仲間 (講談社文芸文庫) ガラスの靴・悪い仲間 (講談社文芸文庫)
安岡 章太郎 (1989/08)
講談社

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2007年11月25日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『千年の祈り』イーユン・リー(篠森ゆりこ訳 新潮社)
 11月18日の記事で著者については紹介した。
 そのあと、ほんとうにじっくりこの短篇集を読み続けた。小説の力を感じた。そのうえ、自分の生き方のいい加減さが恥ずかしくなる。 登場してくる人たちは、みんな何かしらうまくいってない。家族とも、恋人ともうまくいってない。うまくいかないのは運のせいだったり、国のせいだったり、いろいろだけれど何よりも他の人たちとうまくコミュニケーションをとれないのが原因のように思える。もっとうまくできそうなのに、結局他の人と通じ合うことができなくて、傷つけたり、傷つけられたりして状況が悪化していく。
『市場の約束』の主人公三三(サンサン)は32歳の女性の教師。かつて、天安門事件のせいでアメリカへ行く夢を断たれた女ともだちのために、三三が子供の頃からずっとつき合い、結婚を約束していた男、土と偽装結婚させて出国させる計画を立てた。そのあと男はアメリカで離婚し、中国に戻ってきて三三と結婚する、という計画になっていたのに、アメリカに行った二人はそのまま結婚してしまい、三三は捨てられてしまう。

 土が出発するまでにセックスしておくべきだということに、三三は気づかなかった。実のところ土は求めてきたのだが、拒んだのだ。大学の授業で『恋する女たち』を読んだことを思い出したのである。その物語のある部分が、ずっと心に引っかかっていた。登場する姉妹のうちのひとりが、戦争へ行く前の恋人と寝るのをことわる。絶体絶命のときに女が欲しくなっては行けないと思って。でも土は戦争に行くのではなく、別の女と結婚生活を送るのだった。薄いドアをへだてただけのおなじ部屋で、美しい女のからだが食べ、眠り、おしっこをし、月経を迎えているのに、男が恋をしないでいられるわけがない。
 結婚生活を続けるつもりだという短い手紙を最後に、二人からの便りは絶えた。(p119)

たとえセックスしていたとしてもだめだったのかもしれないが、三三はやはりうまく生きられず、それをずっと心に抱えつづけて生きている。
 こんなふうに登場人物の誰もがみんなうまくいかないで、躓きながらそれでも生きている。
 しかし、読んでいるうちになんでもうまくいっている人の方がかえって珍しいんじゃないかな、という気になってくる。人間の初期設定は、コミュニケーションを含めて何もうまくいかないようにできているのかもしれない。ただ、それを抱えてどうやって生きていくのか、自分の人生にどうやって向き合っていくのか、とこの小説を読んでいると考える。
 私は人のせいばかりにしているなあ、と思う。人のせいにしても、何も解決はしない。あきらめるのではなくて、うまくいかないことから眼をそらさずに向き合うこと。それはとても気高い行為なんだ、ということが実感されてくる。

 三三は駅で男を見かける。「十元で一回、私の身体の好きなところを切ってよい。一回でわたしが死んだら金はいらない」と自分の指を切って段ボールに字を書いた男だ。誰もが新しい物乞いだ、と思う。三三の母親(煮卵を作っている)が、金だけ差し出すが、「おれは乞食じゃありません」と男は断り、母親の足下に札を返す。

 その札を三三がひろい、男のそばへ歩いていく。男が彼女を見上げ、彼女はその目を見かえす。男は黙ってナイフを彼女の手に乗せる。三三は男の身体をじっくりながめる。なめらかな肌は日に焼けていて、傷口から静かに血が流れている。まず一本の指で上腕に触れ、軽く押してみて見当をつけてから、三三は指先を肩へ這わす。傷口の肉をなぞると、男は少しふるえる。
「ちょっと。おまえ正気かい」母親の声だ。
 優しく愛撫するような指の下で、男の筋肉がほぐれる。やっと会えた。何年さがしてもいなかった。約束とは何かを知っている人。気がおかしいと世間は思うかも知れないけれど、私たちはもう孤独じゃない。これからはずっとおたがいがいる。これが人生の約束だ。これが醍醐味だ。
「心配しないで、母さん」母親に笑顔を向け、それから男の肩にナイフをあてる。そして、切る。愛とやさしさをこめて、肉をゆっくりとひらいていく。(p130)

自分の人生のどうしようもなさに目をそらさずに生きてきた人こそが、約束とは何かを知っている人に会える。私はどうなのか。常に嘘をついて逃げてこなかったか。うまくいくことがあたりまえだとおもっていなかったか。うまくいかないことから逃げていなかったか。
 今まできっと私は逃げていた。だけどもう逃げないよ。
 そう、思いました。







千年の祈り (Shinchosha CREST BOOKS) 千年の祈り (Shinchosha CREST BOOKS)
イーユン・リー (2007/07)
新潮社

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2007年11月25日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『茄子』黒田硫黄
『セクシーボイスアンドロボ』の黒田硫黄の作品です。
 正直言って、これも一回読んだだけでは歯が立ちません。登場人物の顔が覚えられない、という問題ではなく、コマとコマとの展開が普通のマンガより飛んでいるのです。加藤典洋が前にどこかで、文章でも文間の浅い深いがある、と言っていました。文間とは一つの文と一つの文の間のことです。論理の展開を懇切丁寧に書き込んでいくのか、すっと突き放してしまうのか。それは別にいい悪いではなくて、個性みたいなものです。 このマンガはコマ間が深い。だから次のコマに移ったときに、どうしてこうなったのか、ということを一瞬理解できなくなる。このせいでこのマンガはまちがいなくいいんです。じっくり読まなくてはいけない。
 しかも絵の中の情報量が大きい。蘊蓄やサブリミナル的な書き込みがなされているのではなく、単に人や物が前に出てきたコマとはまったく違うように描かれている。だから丁寧に読まないと分からないし、しかも損をしたように思うのです。
 構図や展開から、とにかく映画をたくさんたくさん見ている人だ、と感じました。映画っぽいが、映画では描ききれないことをマンガできちんとやっています。
 実は、全3巻らしいのですが2巻までしか読んでません。2巻までしか借りていなかったので。3巻は必ず読みたいと思っています。
 
2007年11月21日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『プラネテス』幸村誠
 このマンガも友だちから借りていた本でした。いちど2巻まで読んだのですが(全4巻)、途中で内容が分からなくなって、しばらく放り出してありました。で、二度目に読んだら、ようやくすらすらと意味が分かりました。私の最大の欠点は、登場人物の顔が覚えられないのです。現代のマンガを簡単に読み解くには少し年を取りすぎたみたいです。日常生活自体も危なそうですが。
 2070年代、近宇宙旅行が当たり前になっている時代。主人公のハチマキは宇宙のゴミであるデブリを回収する、いわば雪かきのような仕事をしています。彼が宇宙に深く関わっていくことで、巨大な宇宙と自分とのつながりなど、哲学的な展開を見せます。
 もちろん宇宙とのかかわりから「自分とは何か」「家族とは」といった哲学的主題がこのマンガの大きな要素ですが、私は「仕事」についてありありと描き出しているところに惹かれました。
 宇宙での最高の仕事が木星往還船フォンブラウン号に乗り組むこと、それをハチマキは目標としてデブリの回収という、宇宙では底辺を支える仕事をしているわけですが、職業に貴賎なし、というあたりまえのことがこれだけきちんと描かれている本はあまりないように思います。
 そして、仕事へのモチベーションとはどういうものであるべきなのか、ということも問うているように思います。ハチマキは激しい上昇志向があって、それは科学自体が常に未知を激しく追究しつづけた、ということのメタファーになっているようです。しかしタナベという女の子(私は最初に読んだときずうっと男の子だと思っていた)と出会ったり、自分の中のもう一人の自分、自分の中にいる象徴的な「猫」と向かい合ううちに、ひとりでがんばりつづけるのではなく、周囲の人との穏やかな日常に裏付けられていることが必要だ、と感じるようになります(違うかも知れませんが)。
 仕事については私も考えますが、仕事を自己実現の場としてがんばりまくるのも、逆に生活の糧として割り切るのも、私には違和感があります(以前は私は後者で割り切ろうとしていましたが)。仕事を通して、少なくても自分ひとりではないし、自分ひとりでは何もできない、ということがわかること、そして信頼からうまれるやりがいみたいなものが得られればいいのではないか、と今は感じるようになりました。
 いずれにしても、登場人物のすべてに作者の愛が与えられていて、読み応えのあるいいマンガです。
 友だちは、私が元気がないときこのマンガを読みなさい、と言って貸してくれました。二度目に読んでようやくこのマンガのすばらしさに気付き、遅くなりましたけど、元気が少し出ました。
 要はひとりではない、ということです。たぶん。
 社会になじめず、森の中で行方をくらましてしまうフィーのおじさんは私じしんみたいに思えましたけどね。







プラネテス 5冊セット(全4巻+公式ガイド) プラネテス 5冊セット(全4巻+公式ガイド)
幸村 誠 (2005/07)
講談社

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2007年11月19日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『あまりもの』(短篇集『千年の祈り』所収)イーユン・リー
 以前BS週刊ブックレビューで紹介されていた短篇小説集です。今は短篇小説を読みたい(もしくはそれしか読めない)ので、角田光代が番組の中で紹介していたのを思い出して手に入れました。ぜんぶで十編の短篇が含まれていますが、最初の作品からすばらしかったので忘れないうちに書いておこうと思いました。

 著者のイーユン・リーは北京生まれの北京育ちだが、北京大学卒業後に渡米し、アイオワ大学で免疫学の研究者から作家へと方向転換した。デビュー短篇集である本書で、第一回フランク・オコナー国際短篇賞など数々の賞に輝き、今やアメリカでもっとも注目される新人作家の一人である。(p246「訳者あとがき」)

『あまりもの』は51歳で北京紅星縫製工場を首になった「林(リン)ばあさん」の話です。76歳でアルツハイマーの老人の後妻となります。老人の子供たちにとっては介護をしてもらえるし、林ばあさんにとっては食い扶持を得られるということで両方にメリットがあったのです。しかし老人は事故で死んでしまい、財産も相続できませんでした。
 そのあと林ばあさんは北京西部の郊外にある全寮制の私立学校の家政婦になります。ある日康(カン)という6歳の男の子が入ってきます。林ばあさんは、かれが父親の前妻の子で「あまりもん」だから家に置いておかずにこの学校に送り込まれた、という境遇を知り、同情するようになります。いろいろ世話を焼いてやるうちに、林ばあさんは生まれて初めて恋に落ちるのです。6歳の子供である康に対して。

 夜眠るとき、夢で寝言を言いながら、康は毛布の上に大の字になる。そんな彼を毛布でくるんで、林ばあさんはいつまでも見つめている。そのうち、何かよく分からないぬくもりが胸の奥でふくらんでいく。これが世に言う、恋する、ということなのか。死ぬまでかたときもはなれたくない。そんな激しい思いに、ときどき自分がこわくなる。(p21)

寮で女の子の靴下がなくなる、という事件が起きます。康には女の子の汚れた靴下を集めて枕の下に入れておく、という性癖があったのです。それが発覚してしまう。
 康の姿が寮から行方が分からなくなってしまいます。大騒ぎになってしまうが、ピアノの下で眠っていた、と康が出てきます。この事件のせいで林ばあさんは学校を首になってしまいます。
 
 短篇の筋を書くことにはたぶん何の意味もないですね。すみません。どんな小説でも同じですが、小説自身を読むしか分からない魅力に満ちあふれています。
 いくつかの切り口があると思いますが、五十を過ぎた女性が六歳の男の子に初めて恋をする、という、ある種突拍子もない話が、むしろリアルに切実に感じられることが挙げられます。それは先のアルツハイマーの老人の介護をしていた描写も効いてくるのです。そして、あり得ない設定が、かえって恋そのものの感情を明確に映し出すのです。
 引きつけられたのは、靴下を盗んでいたことが発覚した康を林ばあさんが元気づけようとする描写です。
「康。ちょっとおばあちゃんの部屋へおいで」
「やだ。行きたくない」康は林ばあさんの手をはなす。
「どうしたい?散歩しようか」
「散歩したくない」
「本を読むのは?昨日新しい本が一箱届いたわ」
「読みたくない」
「じゃブランコに乗ろう」
「何もしたくない」康は肩から林ばあさんの手を押しのける。
 彼女の目に涙がこみあげる。頭上から康を見おろす。誰かを愛するということは、たとえかなわぬときでもその人をよろこばせたいということなのだ。(p24)
 誰かを愛する、ということをこんなふうに鮮やかに定義しているのを私は初めて読んだ、と思います。







千年の祈り (Shinchosha CREST BOOKS) 千年の祈り (Shinchosha CREST BOOKS)
イーユン・リー (2007/07)
新潮社

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2007年11月18日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『阿久正の話』長谷川四郎(講談社)
『若い読者のための短編小説案内』の流れで、以前読めなかったこの小説を読みました。年を取ったせいでしょうか、意外と読みやすい小説だったと思います。ただし小説としてはかなり変な気がしますが。
 阿久正という、若い(27歳)の会社勤めの男について、ちょっとした知り合いだった「私」が描写する、というのが小説の枠組みです。阿久正は家の近所では、子供たちにいろんな話を聞かせてやったりして、ちょっと評判がいい。一方、職場では特に目立つこともせず、ひたすら淡々と仕事をこなす、上司などからはむしろ「気心がどうも分からない」ということで評判が悪いような人間だった。その阿久正は交通事故で死んでしまう。それだけの話です。
 面白いのはこの阿久正を描写することにどんな意味があるのか、ということを考えることで、うわっつらをなぞれば、特にどんな意味があるのだろう、とむしろ訝しむしかないのです。近所では面白い人で、職場ではつまらない人で、そんな人が交通事故で死んでしまいました。しかし、それにもかかわらず何かこの小説は確かに変で、やけに胸を揺さぶるのです。いろいろ考えてみたのですが、描写する「私」の視線、つまりカメラの位置が定点に置かれているわけではなくて、ひどくぶれているように思うのです。「私」の視線で突然阿久正が自分の家を建てる描写を行うのですが、一方では決して知るはずもない夫婦間の会話や、会社での仕事ぶりを「私」が描きます。それは最近の映画やテレビでよくある手持ちカメラのぐらぐらというぶれによる描写を感じさせるような違和感があります。しかし合理的に考えればおかしなその描写が、むしろリアリティをもって迫ってくるような気がするのです。
 いずれにせよ、何らかの意味を付託して小説を書こうとしているわけではない部分に私は共感しました。大上段にテーマを振りかざして、それに付属するような小説を読むというのはあまりおもしろい経験ではないような気がします。小説を小説として読む、とことがなされる小説。村上春樹が好きな小説、というのが分かるような気がしました。
 それにしても、この小説の最後は意味が分からなくて、そのくせとても心に残るようなものです。

 阿久正は宵の口に病院にかつぎこまれ、その翌朝、息をひきとった。彼は一晩中生きていたわけである。その間に、細君がかけつけて、そばにいただろう。すでに彼は意識不明で、細君に一言も話すことができなかったかもしれない。だが、もし口をきけたとしたら、彼は細君になんと言っただろうか?私は想像してみた。しかし、これは想像できることではなかった。それで、私はせいぜい、今までそういうような状況下で人がいったと伝えられる中から、もっとも彼にふさわしいと思われることばを書くだけで満足した方がいいと思う。
--きみは、もしいい相手がいたら結婚してくれ、そして、もし子供が生れたら、ぼくと同じ名前を付けてくれ。
2007年11月17日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『若い読者のための短編小説案内』村上春樹(文藝春秋)
 これも再読です。気持ちがいまいち乗らないときは村上春樹を手にする、というのが私にとって落ち込みを乗り切る方法のひとつです。講義(授業)をもとにした話し言葉の文体で書かれたこの本は、村上春樹の肉声に近く、安心した気持ちですいすい読めました。
 村上春樹が第三の新人の作家たちを中心とした短編をいったいどう読んだのか、ということが分かる本です。
 対象となっているのは吉行淳之介『水の畔り』、小島信夫『馬』、安岡章太郎『ガラスの靴』、庄野潤三『静物』、丸谷才一『樹影譚』、長谷川四郎『阿久正の話』の6篇です。
 以前、この本を読んだとき、対象となっている本のうち読んだことがあるのは庄野潤三だけ(それとてほんとうに大昔に、意味も分からず読み飛ばした)でしたので、古本屋などで買い集めたことを思い出しました。しかし恥ずかしい話ですが、『樹影譚』以外は買い集めただけで実は読んでいない。確か長谷川四郎の本は読もうと思って、挫折したのでした。
 しかし、今回再読すると、やっぱりどうしてもこの小説たちを読みたくなる。村上春樹の小説やエッセイというのは、その中で描写、言及されているものを体験したくなる、という不思議な力を持っています。料理の描写で、ああ食べたいな、と思わせたり、音楽、私は特にクラシック音楽がまるで分かりませんが、エッセイで紹介したCDをつい買いそろえたりしてしまうのです。たぶん、村上春樹が書く対象に対してほんとうに愛情を持っている、好きなんだと言うことがよく分かるからなのでしょう。
 ただ、実際に私が同じ経験をしようとすると、さっきの長谷川四郎の本の挫折でもわかるとおり、なかなかうまくいかない。これはおそらく私に本を読む際の注意深さ、もしくは心をオープンにする、といった力が不足しているからのような気がします。
 あとがきで、この本の元となった大学の授業などで参加者に要求したことが書かれています。

 いずれの場合も、ぼくが主催者として参加者(学生)に要求したことが三つある。ひとつは何度も何度もテキストを読むこと。細部まで暗記するくらいに読み込むこと。もうひとつはそのテキストを好きになろうと精一杯努力すること(つまり冷笑的にならないように努めること)。最後に、本を読みながら頭に浮かんだ疑問点を、どんな些細なこと、つまらないことでもいいから(むしろ些細なこと、つまらないことの方が望ましい)、こまめにリストアップしていくこと。そしてみんなの前でそれを口に出すのを恥ずかしがらないこと、である。この三つは、真剣に本を読み込むにあたって、ぼく自身が常日頃心がけているポイントでもある。(p239 「あとがき」)

二番目については、だいたいいつもそうしているつもりですが、一番目と三番目はほとんどできていません。本は読み飛ばせばある程度結果はついてくる、といういい加減さが私にはあります。しかし以前橋本治の読書の考え方でも感じましたが、もうこれから読める本というのも年齢ともに確実に減っていくわけですから、じっくりじっくり読んでいく、というスタンスに変えていくべきなのだろうとは思っています。
 ところで、この本で参考になったのは、安岡章太郎の比喩について言及した部分です。

 比喩というのはごく簡単にいってしまえば、「他者への付託を通して行われるイメージの共有化」なのです。これは多くの人々がそろって指摘することですが、安岡氏の用いる比喩は非常にうまく痛快です。それはひとつの独自の世界を作り出し、読者を易々とその世界の中に引きずり込んでしまう。しかもそれは象徴とかメタファーとかではなくて、純粋に物理的なイメージです。ややこしいことは何も考えなくていい。読者はただ「はあ、なるほど」と感心してそれを受け入れればいいだけのことです。そして知らず知らずのうちに、読者は作者の提出する世界の中に引き込まれていってしまう。(p98)

村上春樹といえば、もちろん比喩を多用する作家です。『スプートニクの恋人』ではたとえばこんな感じ。

「まだ眠いの?」
「もう眠くない」とぼくは目を開けて言った。
「元気?」
「元気だよ。春先のモルダウ河みたいに」(p46)

安岡章太郎よりはちょっとあえてずらしている比喩ではあるけれど、基本的に先に挙げた比喩の定義は村上春樹自身の比喩の説明でもあります。比喩の効果については村上春樹の場合から考えてしまいがちです。そうすると文章の表面的なかっこよさ、おしゃれさのために使われているような気がしていました。しかし「他者への付託を通して行われるイメージの共有化」という、いわば基本に戻って考えた場合、小説の世界に引き込むための有効な装置なのだ、ということを自覚して読まないといけないな、という気がしました。どうも文章の表面に流されて読みがちなので。
 さて、今回再読して、特に読みたくなったのはその安岡章太郎と庄野潤三です。表面上のコンサヴァティヴさと読み込んだときのラディカルさ、という落差みたいなものがとても気になりました。







若い読者のための短編小説案内 若い読者のための短編小説案内
村上 春樹 (1997/10)
文藝春秋

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2007年11月17日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『スプートニクの恋人』村上春樹(講談社)
 久しぶりに読み返してみた。短いけど、悲しい話です。

 ぼくはこの小さなギリシャの島で、昨日初めて会ったばかりの美しい年上の女性と二人で朝食をとっている。この女性はすみれを愛している。しかし性欲を感じることはできない。すみれはこの女性を愛し、しかも性欲を感じている。ぼくはすみれを愛し、性欲を感じている。すみれは僕を好きではあるけれど、愛していないし、性欲を感じることもできない。ぼくは別の匿名の女性に性欲を感じることはできる。しかし愛してはいない。とても入り組んでいる。まるで実存主義演劇の筋みたいだ。すべてのものごとはそこで行き止まりになっていて、誰もどこにも行けない。選ぶべき選択肢がない。そしてすみれが一人で舞台から姿を消した。(p179)

ギリシャの島で、煙のように消えてしまったすみれ。恋人にはなれなかったにせよ、ぼくにとって大切な大切な友だちだった。その大切な友だちを失うこと。大切な人間を失うということはどういうことなのか。正しいとか誤っているとかではなく、とにかく人は人と突然出会い、そして突然失ってしまうのだ。失ってしまったもの-究極的には死者だが-、と私はどうつながろうとすればいいのか。
 小説の最後。

 ぼくは夢を見る。ときどきぼくにはそれがただひとつの正しい行為であるように思える。夢を見ること、夢の世界に生きること-すみれが書いていたように。でもそれは長くはつづかない。いつか覚醒がぼくをとらえる。
 ぼくは夜中の三時に目を覚まし、明かりをつけ、身を起こし、枕もとの電話機を眺める。電話ボックスの中で煙草に火をつけ、プッシュ・ボタンでぼくの電話番号を押しているすみれの姿を想像する。髪はくしゃくしゃで、サイズの大きすぎる男物のヘリンボーンのジャケットを着て、左右違った靴下をはいている。彼女は顔をしかめ、ときどき煙にむせる。番号を正しく最後まで押すのに時間がかかる。でも彼女の頭の中にはぼくに話さなくてはならないことが詰まっている。朝までかかってもしゃべりきれないかもしれない。たとえば象徴と記号の違いについて。電話機は今にも鳴り出しそうに見える。でもそれが鳴ることはない。ぼくは横になったまま、沈黙を続ける電話機をいつまでも眺めている。(p305)

申し分のないエンディングのように思われる。しかし小説はつづく。

 でもあるとき電話のベルが鳴りだす。ぼくの目の前で本当に鳴りだしたのだ。それは現実の世界の空気を震わせている。ぼくはすぐに受話器を取った。
「もしもし」
「ねえ帰ってきたのよ」とすみれは言った。とてもクールに。とてもリアルに。(p306)
(中略)
 そして唐突に電話が切れた。ぼくは受話器を手にしたまま、長い間眺めている。受話器という物体そのものがひとつの重要なメッセージであるみたいに。その色やかたちに何か特別な意味が込められているみたいに。それから思いなおして、受話器をもとに戻す。ぼくはベッドの上に身を起こし、もう一度電話のベルが鳴るのを待ちつづける。壁にもたれ、目の前の空間の一点に焦点をあわせ、ゆっくりと音のない呼吸をつづける。時間と時間のつなぎ目を確認しつづける。ベルはなかなか鳴りださない。約束のない沈黙がいつまでも空間を満たしている。しかしぼくには準備ができている。ぼくはどこにでも行くことができる。
 
 そうだね
 
 そのとおり
 
 ぼくはベッドを出る。日焼けした古いカーテンを引き、窓を開ける。そして首を突き出してまだ暗い空を見上げる。そこにはまちがいなく黴びたような色あいの半月が浮かんでいる。これでいい。僕等は同じ世界の同じ月を見ている。僕等は確かにひとつの線で現実につながっている。ぼくはそれを静かにたぐり寄せていけばいいのだ。(p307)

引用が長くてすみません。
 失ってしまったものとどうつながるか。小説をここまで読み続けると、ことばにはできないけれど、確かにつながる方法がある、という確信を私は得ることができる。ことばにできないというのもずるいので、失敗を覚悟でことばにしてみると、それは「夢」を見る、という能力ではないか。しかも目覚めながら。夢の世界では失った人々と自由に会うことができる。つながっていられる。しかし「いつか覚醒がぼくをとらえる」のである。そのときの喪失感はさらに強い。だが、覚醒しながら夢を見られるとすればどうか。そんな能力はない?幻視者か?うーん。そういうことではないんだが、うまくいえないなあ。
 「ぼく」が大学生の夏休みにひとりで旅行しているときに知り合った年上の女性との話をすみれに話しているときに出てくる会話。

「その話のポイントはどこにあるのかしら?」とすみれはそのときたずねた。
「注意深くなる、というのが話のポイントだよ、たぶん」とぼくは言った。「最初からああだこうだとものごとを決めつけずに、状況に応じて素直に耳を澄ませること、心と頭をいつもオープンにしておくこと」(p61)

相変わらずうまくは言えないが、たとえば別れた人からもらった腕時計を見るたびにその人を思い出す、というまったくつまらないことだって、考えてみると失った人とつながっていると言えるのじゃないだろうか。ただの時計、と突き放すのではなくて、人との関係が満ちあふれている、と言うことに気付くこと。意外とひとりではないということ。それが覚醒しながら夢を見るということだろうか。かなり無理があるな。村上春樹がそんなことを言おうとしているのかは知らない。たぶんまったく違うんだろう。やはり、そもそもそんな風にことばにすべきことではないのでしょうね。ことばにならない力をこの小説は与えてくれる。悲しいけれども希望が湧く小説です。







スプートニクの恋人 スプートニクの恋人
村上 春樹 (1999/04)
講談社

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2007年11月13日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『日本の歴史をよみなおす』網野善彦(ちくま学芸文庫)
 網野さんの本を読むのは、『日本社会の歴史』(岩波新書)に続いてです。中沢新一さんに『僕の叔父さん 網野善彦』という本がありますが、そのとおりで、中沢さんは網野さんの甥となります(血縁関係はない)。
  『日本社会の歴史』は日本通史といった観があり、勉強になりました。その中でも特に、鎌倉時代が、東を幕府が、西を朝廷がそれぞれ分立して支配している状態だった、というのを恥ずかしながら初めて教えてもらいました。1192かまくらばくふ、で鎌倉が全国を統一した、と思いこんでいたのです。
 さて、この本は講義録ということで非常に読みやすい本になっています。

  つまり、ほぼ十四世紀に南北朝の動乱という大きな変動がありますが、、それを経たあとと、それ以前の十三世紀以前の段階とでは、非常に大きなちがいがある。十五世紀以降の社会のあり方は、私たちの世代の常識で、ある程度理解が可能ですが、十三世紀以前の問題になると、どうもわれわれの常識ではおよびもつかない、かなり異質な世界がそこにはあるように思われます。(p14)

前半部分のテーマは引用したこの部分に集約されているように思えます。そして現代の社会の成り立ちというものを考えるときに、どのように過去、歴史にアプローチすべきか、ということを網野さんは何度も言います。  例えば「非人」について。十三世紀までは非人と呼ばれる集団は「清め」を職能とした神仏に近い集団であったのが、次第に差別の対象となり、江戸時代に被差別の対象として固定されてしまった経緯を調べ、次のように説明します。

  十四世紀以前の「穢れ」は、前にも触れてきましたが、ある種の畏怖、畏れをともなっていたと思いますが、十四世紀の頃、人間と自然とのかかわり方に大きな変化があり、社会がいわばより「文明化」してくる、それとともに「穢れ」に対する畏怖感はうしろに退いて、むしろ「汚穢」、きたなく、よごれたもの、忌避すべきものとする、現在の常識的な穢れに近い感覚に変わってくると思います。(p138)

このように、十四世紀以前とそのあととでは人間の認識がまるで違った可能性があるわけです。『陰陽師』では安倍晴明が式神を操っていて、あんなことはあり得なかった、と否定は簡単にできますが、そもそも世界がどう見えていたのかということを考えると、ああいう世界も日本にはあったのかも知れません。  他にも「女性」も同様に決してずっと虐げられていた立場ではなく、むしろ商工業でリーダーシップすらとっていた立場だったことを強調します。  いちばん気になったのは宗教のことでした。鎌倉新仏教が十四世紀の社会の大きな転換の中で、力を持っていきながら、どうしておとろえてしまったのかということについて。

  しかし日本の社会の場合、十六世紀に入ってきたキリスト教を含む、こうした新しい宗教は、結局十六世紀から十七世紀にかけての織田信長、豊臣秀吉、さらに江戸幕府による血みどろの大弾圧によって、独自な力を持つことができないようになってしまいます。どうしてそうなってしまうのか。じつはこれが日本の社会の問題を考える場合に、いちばん大きな問題のひとつなのだと思います。(P79)

以前『日本仏教史』という本を読んだときも、現代日本でなぜ宗教がこれだけ力を持たないのか、ということが書かれていた気がしますが、ようやく意味が少し分かってきました。私じしんが宗教を持つということにずっと拒否してきました。しかし非宗教であると言うこと自体がむしろ近世の支配者の宗教弾圧に根を発するものなのかも知れない、という視点で見直したときに、宗教を単に拒絶するだけでいいのかということをもう少し考えるべきではないか、と思ったのです。
  本の後半では「百姓」というのは農民だけを差すのではない、単なる平民のことなのだ、ということから入っていきます。フィールドワークによって学者も誰も疑わなかった百姓=農民という定義を覆していきます。百姓の中には農民も漁民も、それに海運業者や塩を作っている人たちも入っているのです。

  これまでの歴史研究者は百姓を農民と思いこんで史料を読んでいましたので、歴史家が世の中にて今日していた歴史像が、非常にゆがんだものになってしまっていたことは、疑いありません。これは江戸時代だけでなく中世でも同じですし、古代にさかのぼってもまったく同様です。百姓は決して農民と同じ意味ではなく、農業以外の生業を主として営む人々-非農業民を非常に数多くふくんでいることを、われわれはまず確認した上で、日本の社会をもう一度考えなおさなくてはならないと思います。(p255)

  いずれにせよ、こういう日本史の先生に教わっていれば、もう少し歴史については興味を持って勉強していたのに違いない、と思うと少し悔しい思いがします。ただ、網野さんの本についてはまだまだ読むべき本がありますので、遅まきながら勉強していきたいと思います。また、網野さんは過去をほじくり返すのではなく、今の日本の成り立ちを照射するために歴史を勉強していかなければならない、となんども繰り返します。常識的な目で見た現代を別の切り口で見直すためにも歴史の勉強は不可欠なように思います。







日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫) 日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)
網野 善彦 (2005/07/06)
筑摩書房

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2007年11月13日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『私のように美しい娘』フランソワ・トリュフォー監督
  これはかなりくだらない(誉めている)映画。トリュフォーというと私は『アメリカの夜』がとってもおもしろかったが、この映画はむしろ典型的な喜劇。  筋が面白い。分かりづらいと思いますが、備忘のためなのですみません。読み飛ばしてけっこうです。  若い社会学者が殺人の罪で留置所に入っているカミーユという女(ベルナデット・ラフォン)に取材に何度も訪れる。この際にマイクとオープンリールのテープデッキを持って行くのがいけてる。
  カミーユは美人でスタイルがすばらしい。カミーユは罪を犯すまでの生涯を社会学者に語る。  子供の頃、はしごをはずして父親を転落死させたとして少年院みたいな所へ入れられる。脱走し、ヒッチハイクで捕まえた男と母の二人家族に転がり込み、結婚する。
  母親との生活に嫌気が差し、夫婦で逃げる。
  酒場で夫婦で勤め始めるが、そこのバンドの男といい仲になる。それがばれてだんなが店の外に駆けだして交通事故に遭う。大けが。
  バンドの男にも妻がいて、これまたもめてカミーユが逃げ出すと、害虫駆除業者の男の車に出くわすことになり、知り合う。害虫駆除の男はいつも金をくれる。しかし宗教的に厳格で、なかなか手を出さない(結果的には手を出す)。
  さらにだんなの交通事故の処理を行う弁護士ともつきあい出す。 「24時間で4人とつき合うのはたいへん」。  弁護士に金をむしり取られていることがわかり、だんなともども害虫駆除の薬で殺そうとする。しかし害虫駆除業者が発見し、二人を救う。害虫駆除業者は神の許しを得るために、カミーユとともに教会の塔から身を投げようとする。しかし塔から落ちたのは害虫駆除業者だけで、カミーユは助かる。その結果、カミーユが突き落とした、として拘留されている。  カミーユは無実だと言い、すっかりカミーユに惹かれてしまった社会学者は奔走し、たまたま害虫駆除業者が自ら落ちていく場面を子供が録った16ミリフィルムを見つけ出した。
 カミーユは出所後自分の境涯を歌い、歌手として世に出る。社会学者はカミーユの部屋に行き、結ばれそうになったところで、カミーユの夫が母親の遺産が手に入ったとやって来て、もめる。社会学者が気絶している間に夫が射殺されており、社会学者は殺人容疑で拘留される。
  社会学者は新たに老弁護士にカミーユの過去の罪(義母殺し)の証拠が夫の実家にあることを説明し、弁護士はそれと引き替えにカミーユに自白を迫る、と誓うが、刑務所の掃除をしながら社会学者がテレビで見たのは、カミーユと弁護士が手を絡み合わせ、夫の実家がその弁護士の指図によって破壊されていくさまだった。
  だらだらと書いたが、映画ではスピードがすごい。がんがん展開していく。社会学者がカミーユにどんどんやられていく様が情けないが、たぶんああいう悪女には多くの男はやられてしまう。自戒。ただ、カミーユは打算だけで身体を許しているわけではなく、どの人もそれなりにいいところがある、と社会学者に語る。悪女というよりは、そうやってしか生きていけないタイプの人間。だからみんなに愛されてしまうし、愛してしまう。
  ラストシーンは社会学者の秘書で、彼に好意を持っているタイピストの女の子が、刑務所のそばのアパートのベランダでタイプを打っているというもの。彼女がいったい何を打っているのか。社会学者の書こうとした論文の続きなのか、気になった。
 とにかくカミーユが魅力的。それから、害虫駆除業者のストイックぶり(暴かれちゃうけど)が面白い。







私のように美しい娘〔フランソワ・トリュフォー監督傑作選12〕 私のように美しい娘〔フランソワ・トリュフォー監督傑作選12〕
ベルナデット・ラフォン、アンドレ・デュソリエ 他 (2004/12/15)
日本ヘラルド映画(PCH)

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2007年11月12日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | 映画 | Top↑ |
『こんなに近く、こんなに遠く』レザ・ミル・キャリミ監督
 BSでやっていたイラン映画。あらすじは一応書くけど苦手かつ適当なので、こちらを参照してください。http://www.ne.jp/asahi/bamako/world/cinema/fasia2005_soclose.htm
 イラン映画というと、キアロスタミ監督の映画を見たことがある。『友だちのうちはどこ?』だとか『桜桃の味』。あとはマジッド・マジディ監督の『運動靴と赤い金魚』(監督の名前についてはまったく知らなかったが)。どれもおもしろいし、子供が出てくる映画はかわいかったりして、いい映画であったと思うが、やっぱりイランはイラン、という感じだった。私の生きている空間とはまた別の世界の話であり、ファンタジーである、という感覚。
 しかし、この映画は違った。日本とイランでも抱えている問題は同じだ。
 主人公はテヘランの脳外科医。超有名人でテレビにも出てしまう。私の持っているイメージのイラン人ではない。びしっとスーツを着て、縁なし眼鏡をして、落ち着いた口調で話す。いけている中年医師である。エグゼクティブ。メルセデスに乗っているし、ハンズフリーで電話しているし、馬券を買いまくっているし。使っているPCはマックブック。だいたいテヘランの高速道路ってすごく車が多いんだなあ。4車線くらいあるのにびっちり車が走っている。それなのにウィンカーも出さずに車線変更しているし。などと見ている間に、イランの話なのか日本の話なのかアメリカの話なのか分からなくなってくる。
 主人公は家庭を顧みないで生きていて、後妻は男と勝手に旅行に行ってしまうなどなどで、孤独であるらしい。そんな中、主人公の息子が脳の病気で、余命1ヶ月と言うことが分かる。息子は天体観測大会があって砂漠に行ってしまった。彼のために買った天体望遠鏡を届けにメルセデスで砂漠に向かう。ここからロードムービーになる。砂漠はすごい。乾いている。しかし、こんな中で見る星はきっとすごいのだろう。
 バイクが故障して困っているハジ(「経験者」ということらしい。「長老」というには若いので、学識を持つ人間ということか)を拾い、住んでいる村まで送り届ける。天文学の話になって、ハジは昔の天文学者は砂嵐で人やラクダが埋まってしまったときに星の声を聞いて「そこだ」と指をさすのさ、と言う。主人公は聞き流すが。
 息子が滞在するはずの村に着いたが、砂嵐の予報が出たため、天体観測大会の場所はそこから先へすでに移動していた。その村でかつて主人公が大学で教えた女医と出会う(主人公は覚えていない)。この女医がかわいい。鶴田真由に似ている。主人公は息子を救えないことに焦る。神が助けてくれる、という女医を罵倒し、ついでに神を罵倒する。
 主人公は息子を追いかけてメルセデスを走らせる。しかし砂漠の真ん中でガス欠となる。途中で予備に買っておいたガソリンは実は水であった。ガソリンを高値で売りつけたじいさんにだまされてた。このへんからホラームービーになる。携帯がほとんど通じない場所。主人公は歩いて脱出を試みるが、あまりの暑さに失敗し、車に戻り、休む。寝ている間にものすごい砂嵐がやってきて、メルセデスを完全に埋めてしまう。窓を開けると砂が車内に入り込んできた。服を挟み込んで砂を食い止める。携帯に息子から電話がかかってくるが、電波の状況が悪く会話ができない。車のバッテリーは切れて、真っ暗になる。持っていたビデオカメラを動かそうとするが、衰弱した主人公は操作を誤りカメラを落とす。カメラは再生を始め、しかも逆回しに再生していく。息子の映像がどんどん幼いものになっていく。このあたりは『ニューシネマ・パラダイス』っぽい。もう終わり、と思ったときに息子がサンルーフをこじ開けて助けてくれる。神(息子)が地上の人間(父)に手を伸ばすようなショットで終わる。
 ロードムービーまでの部分がいちばん面白い。テヘランの都市の風景、砂漠の風景。ここを走ることを少しだけ想像したりする自分。人々の家の描写。
 主人公が追いつめられていき、死にいちばん近づき、そして神に助けられる部分がいちばんのキモなのだろうが、それを素直に受け入れることが出来ない。そんなに簡単に救われていいのかね(もちろん息子がこのあとたぶん死ぬことになるとはいえ、これは「救われた」と言ってよいのではないか?)。例えば遠藤周作の『沈黙』の神は、まったく助けてくれなかったよ。もちろん砂漠によって追いつめられていく描写は、そのあと用意された救いを納得させるには充分なものなのだが。
 いずれにせよ、最初に言ったように私が悩んでいることと地続きの悩みを、全く別の角度から追究している。そのやり方はすばらしいし、驚く。むしろ宗教を生活様式として持たない私だからこそ、違和感を持ってしまうのか?宗教についてはもう少し考えないといけない。
 だけど、主人公が救われなかったら私はもっと救われなかったかもなあ。ということで、映画としてはよしとしよう。

2007年11月11日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | 映画 | Top↑ |
『ヘーゲルの歴史意識』長谷川宏(講談社学芸文庫)
 カントの入門書の次はヘーゲルの本を読んでみることにした。カントからヘーゲルというのは順番的にはたぶん合っているのだと思う。前読んだ本にもカントをヘーゲルがどう解釈したか、というトピックスが出てきたので。
 ヘーゲルについてはいつか読もうと思って読みやすい訳で定評のあるこの著者の『精神現象学』や『歴史哲学講義』を手には入れているのだが、いくら訳が読みやすい、とは言っても難解なイメージが先行するヘーゲルだけに、この本も難しいのできっとすぐやめちゃうだろう、と思っておそるおそる読んでみた。
 そしたら、えらく面白い。ボールペンで線を引きながら本を読むのだが、ここ最近で一番線を引くところが多かった本であるような気がする。
 ヘーゲルという人は二十代からいろんなことを考えていた人だが、老年になるまでにその思想がけっこう変わっていく。そしてもちろん変わらないこともある。その変化すること、しないことの描きようが面白い。
「啓蒙的理性の克服」「主観道徳から運命の必然へ」「国家の現実性」「フランス革命と自由」「古代ギリシャ共和国-同型から歴史的把握へ-」「歴史意識の帰趨」というのが各章のタイトルだが、それぞれの主題に対してヘーゲルがどう変わっていったのかということを丁寧に教えてくれる。ヘーゲルの思想というと「弁証法」しか思い出せないだめな私だが、結果的にヘーゲルの考え方のあらましがある程度分かるようにもなっている。
 特に国家と個人の関係については、ヘーゲルがいた当時のドイツが分裂し解体されようとしている中で、ヘーゲルが国家をいかにきっちり立ち上げるか、そのために個人の自由なんてものは国家に対しては無視してかまわない、という主旨の考えを深めていくことは興味深い。こういう考え方を私は好まないが、しかし国家のない状態に置かれようとしていた場合にヘーゲルの考え方以外で思考することが出来たのか、そしてその対立軸は現在に至るまで生きているのではないか、と言うことを考えると、この主題についてはもう少し考えてみたくなった。
 それから、主題とは別にいくつかいい文章があったので引用。

 政治的人間とは、大衆の私的な生活意識にたくみにもぐりこみながらも、どこかでは必ずその私的な意識をふりすてた一般意思を自分の意思として押し出さざるを得ない人間のことだ。俗にいう建前と本音の分裂は、自己の内部に一般意識と個別意識の葛藤を常にはらまざるをえない政治的人間が、その矛盾を絶えず新たな統一にむかって克服すべく明確に対象化するのではなく、外的な状況の違いに応じて、あるいは一方を、あるいは他方を、それが自分にとっての唯一の意識であるかのごとくに提示するところにうまれるもので、分裂の芽は、政治的人間には宿命的につきまとうものといわねばならない。だから、なにが建前でなにが本音かを知ることよりも、建前と本音がどうからみあっているかを知ることの方が、政治の学としてはずっと重要なことなのだ。(p139『フランス革命と自由』)

 難しいけど、何となく分かるなあ。というか、私は近頃「建前と本音」について考えていて、特に本音をいうことがすばらしい、みたいな最近の風潮がどうしても気にいらないでいた。建前を捨てて本音だけでしゃべりあえばすばらしいのかね。ほんとかよ。自分ひとりで生きているのならばそれでもいいのだろうが、他人と生きていく中で自分中心の考え(=個別意識)をみんなが言い合えばそれはぐちゃぐちゃになってしまう。そうではなく建前(=一般意識)を踏まえた上で、その建前が陳腐化したなり、もしくは完全に誤っているのであればそれをぶちこわすということをすべきではなかろうか。なんてことを考えた。上の文章は「政治的人間」についてだが、人間は多かれ少なかれ他人の前では政治的ですもんね。
 それからもうひとつ。こちらはヘーゲルの文章。『ドイツ憲法論』から。

 というのも、現に存在するものは、われわれを怒らせたり悲しませたりすることはなく、怒りや悲しみは、それがあるべき姿をとっていないと感じるときに生ずるものだからである。だが、現に存在するものが恣意や偶然でそうなっているのではなく、そうならざるをえない必然にもとづいてそうなっていることをわれわれが認識すれば、それはそうあるべきだという認識もまた得られるのである。だが、必然性を認識し思考する習慣を身につけることは、人間にとっては一般に難しいことなのだ。(p91)

 ちょっと泣けますよね。人生の達人といった文章。とは言っても30歳くらいで書いた論文ですが。
 目の前のものが私の考える「あるべき姿」をとっていないと感じるから、怒りや悲しみを感じてしまう。だけど、「あるべき姿」をとっていないと感じても、それは私がそう感じているだけのこと。物事は私がどう感じようと必然として今こうなってしまっている。必然なんだ。そう考えれば怒りや悲しみは感じないよ。それは難しいけどさ。
 そうだね。それは難しい。そんなふうに考えられるようには、きっと死ぬまでなれそうもないけど。







ヘーゲルの歴史意識 (講談社学術文庫) ヘーゲルの歴史意識 (講談社学術文庫)
長谷川 宏 (1998/11)
講談社

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2007年11月06日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
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