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『白川静さんに学ぶ漢字は楽しい』小山鉄郎

 これは、漢字が持つ体系的なつながりを明らかにして文化勲章を受けた漢字学の第一人者・白川静さんに、漢字の成り立ちや体系を楽しく教えてもらった本です。
 毎回、白川静さんに直接取材して、漢字の成り立ちを一つ一つ教えていただきながら、共同通信社の企画として全国の新聞に「白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい」を連載してきました。その連載中、反響も大きく、単行本かを望む声が多く寄せられました。このような要望に応えるため、連載企画をもとにして、全文を書き下ろしたものです。(「はじめに」)

この本を知ったのは以前BSブックレビューで紹介されていたからで、私は白川静の名は知っていても興味がなく、漢字にも関心がなかった。これだけ自分でも漢字を使っているのに。誰が紹介していたのかは忘れたけど、とても面白そうだったのでとりあえず手に入れてみたのだった。 

 漢字は前記したように約三千二百年前、中国の安陽(河南省)に都した殷王朝が、卜いに用いた亀の甲羅の腹や牛の肩甲骨に文字を刻した甲骨文字が始まりです。(「はじめに」)

そんなことを習ったかもしれない。忘れたなあ。白川静さんはこの漢字の起源を研究し、漢字学を打ち立てたのだという。
 で、例えば「右」という漢字の成り立ち。「右」「左」に共通の「ナ」の部分は手を示している。で、「口」の部分は何か、というと髪への祝詞を入れる箱であるサイのことなのだそうである。 

 つまり「右」は右手で、この祝詞が入った器サイを持って祈る形の字です。(p11)

このことが一目瞭然である古代文字が書き添えられているので、いきなり引き込まれてしまう。
 普段使っている漢字に何千年も昔の思いや歴史が封入されていると思うと、吸い込まれるような気にもなるし、漢字の持つ力に少しおそれを感じたりもした。
 実際、ここに出てくる漢字の成り立ちにはけっこうおどろおどろしいものがある。
 例えば「真」。真実とか純真とか、この漢字にはいいイメージしかなかったが、実はこんな漢字。

「真」(眞)の旧字は、「匕」と「県」とでできた字です。匕はその古代文字を見ると、人が倒れた形をしていて、人の死を意味しています。(中略)
 次に「眞」の字のうちの「県」の部分です。この「県」の旧字形「縣」をみると、「キョウ(引用者注:パソコンに漢字なし。「県」の足の部分が「く」が三つ並ぶ)」と「系」で作られています。実はこの「キョウ」という字は、人の首を逆さまにかけている形で、「くくく」の部分は髪の毛が下に垂れ下がっている形を示しています。「系」は紐のことです。だから「縣」は、木に紐で首を逆さまにぶら下げている形で、「かける」の意味があります。(中略)
 「匕」は死者のことであり、「県」は首の転倒形ですから、この「眞」は顛死者、横死者、不慮の災難で行き倒れとなり死んだ人を示す文字です。死者は、それ以上は変化しないので、永遠のもの、真の存在として「まこと」の意味となったのです。(p164)

したがって、眞を含む文字にはこの怨霊をおそれ、鎮めることに関連した意味を持っている字が多いのだという。難しい字もあるが、見慣れた字としては「鎮」や「慎」などがそうだ。
 こういう話を聞くと、漢字が怖くなってくる。で、こういう謎解きってけっこう好きだったりするので、少し嵌ってしまう。
 白川さんは一方で、漢字が戦後当用漢字が発表されていくつかの漢字が改変されてしまったために、本来の意味が分からなくなってしまったことを批判している。
 「害」という字について。害という字のうかんむりの下の部分の縦の線は、旧字では一番下の横の線を突き抜けて、「口」に届いていたのだそうだ。知らなかった。この「口」は「右」の「口」と同じで、祝詞の入った器であるサイを表している。一方、サイの上の部分は大きな取っ手のついた針なのだ。したがって、針でサイを傷つけて、その効果を失わせて、その祈りの効果の実現をじゃまするのが「害」という字なのだそうだ。しかし新字では白川さん曰く「無害の字」になってしまっている。
 日本語は変化していくことに私自身はけっこう肯定的だが、漢字についてはこれはこの起源を使わないのはもったいないぞ、という気にさせてくれた本だった。もう少し白川さんの本を読んでみたい。







白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい 白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい
小山 鉄郎、白川 静 他 (2006/12/18)
共同通信社

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2007年07月12日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『今日の芸術』岡本太郎
 岡本太郎といえば、私たちの世代では「芸術は爆発だ」と本人が叫ぶ(叫んではいないな、しかし話す、というのでもないし)テレビCMのイメージが刷り込まれており、したがってわけが分からないことが書いてあるという先入観があったが、決してそんなことはない。というよりもあまりにも論理的で、かつわかりやすい本であった。
 書かれたのは1954年だから、戦争が終わってまだ10年経たない頃のことだ。その中で岡本は新しいということのすばらしさを全面的に掲げる。そして、芸術は常に新しくなければならない、と言い続ける。

 芸術は創造です。だから新しいということは、芸術における至上命令であり、絶対条件です。(p59)



 この流行の「創造」と「模倣」の二つの要素が、時代をすすめているのです。だから芸術の新しさを「あれは、たんなる流行だ。うわついた思いつきだ」といって敬遠することはまちがいであり、時代おくれになることです。(p68)

こう言うことを言われると、だいぶ年を取ってきたわたしとしては何となく耳が痛い。流行というものをそれがファッションであったり歌であったりしても、非常に気にしているにもかかわらず流行に興味を持つことが自分が「うわつい」ているような気がして、斜に構える傾向があるので、逆に流行というもののプラス面を見ていくべきなのかもしれないな、とやや反省したりした。
 で、芸術における「新しさ」の重要性について説明したうえで、岡本太郎は次のように宣言する。

 今日の芸術は、
 うまくあってはいけない。
 きれいであってはならない。
 ここちよくあってはならない。(p98)

つまり、逆の「うまい」「きれい」「ここちよい」というのは既成の概念に寄りかかっているだけのもので、それは所詮「芸事」にすぎないという。そしてセザンヌやゴッホ、ピカソの例を引いて、彼らが現われたときはうまくなく、きれいでなく、ここちよいものではなかった、ということを説明してくれる。時代を経て彼らがうまく、きれいに、ここちよく描いているように見えるだけなのだ、と。
 これってけっこうすぐ力になるアドバイスではないだろうか。自分が心地よいものをつい作ってしまう。しかしそれを破壊して見慣れないものにしていく。私が昔大江健三郎に凝っていた頃、大江がロシアフォルマリズムの「異化」という概念をしきりに使っていたのを思い出した。







今日の芸術―時代を創造するものは誰か 今日の芸術―時代を創造するものは誰か
岡本 太郎 (1999/03)
光文社

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2007年07月12日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
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