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『プルーストを読む-『失われた時を求めて』の世界』鈴木道彦
『失われた時を求めて』は集英社文庫で全13巻。とりあえず揃えてみた。しかしまだ全く手を掛けていない。実は文庫になる前、単行本で出ているときに最初の2巻くらい買って読んでみたが、簡単に挫折した。まあ、また挫折したっていいわけだが、読み始めることに少し臆病になっている。一応それなりの準備が必要だ。ということで、訳者が書いた『失われた時を求めて』の入門書からまず入ってみたわけだ。
 正直言って読んでいない本の解説であるわけだから、これをまた読んで感想を書く、というのも何となく妙なものだが、ほんとうに超ラフな全体像がある程度うすぼんやりと見えてきたようだ。小説のいくつかのテーマに沿ってそれを解説していくというもの。
 もっとも面白そうだったのは同性愛の話。かなりきわどい、というかすごい描写があるみたい。プルーストは出版社に対して「私の本は非常に淫らな内容のものになるでしょう」と書き送っている(p154)のだが、まったくもってそのとおり。たとえばこんなの。

 空襲に晒された灯火管制下の暗い町のなかに、一カ所だけ生き生きと活動しているホテルがあるのを見つけて、語り手がのこのこ入り込んでゆくと、そこはソドムの男たちの集う場所で、実はシャルリュスが自分の執事に命じて購入させて、もとチョッキの仕立て職人のジュピヤンに管理させている宿なのであった。いつも究竟の場所から他人の秘密をのぞき見る語り手は、そのホテルで、自分の身体をベッドに縛り付けさせながら、釘の植わった鞭で若い男に打擲させて、血まみれになりながら快楽に喘いでいるシャルリュスの姿を見てしまう。(p167)

『ユリシーズ』と並んで二十世紀最大の小説、と聞くだけで恐れおののいてしまう私には、こういう、なんというか、下世話な描写が結構あるというのは長い長い小説を読み続けるモチベーションのひとつにはなるだろうな、という気がした。
 いつか読まないとなあ。いつかいつかと言っているうちに年を取っていく一方だが。
 読書について『失われた時を求めて』から引用されたすばらしいことばがあったので、自分に対して戒めを含めて再引用しておきます。本を読むことそれ自身を目的としてはいけない、むしろそれはきっかけであって、そこから自分で歩いていかなければいけない、と言うこと。

 一人ひとりの読者は、本を読んでいるときに、自分自身の読者なのだ。作品は、それがなければ見えなかった読者自身の内部のものをはっきりと識別させるために、作家が読者に提供する一種の光学器械に過ぎない。(p228)








プルーストを読む―『失われた時を求めて』の世界 プルーストを読む―『失われた時を求めて』の世界
鈴木 道彦 (2002/12)
集英社

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2007年06月24日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『百年の孤独』G・ガルシア=マルケス 鼓直訳
 たぶん、高校生のときに図書館で借りて読んだように記憶しているが、今回じっくりじっくり舐めるように読み返して、高校生では相当適当に読み飛ばしたんだなあ、と思うほどに濃密な小説だった。ここのところ私自身の体調が思わしくなかったこともあり、なかなか一気に読み進められなかったけれども、かえってゆっくり読むべき本なのかもしれない。
 なんと言っても、そのジャーナリスティックな文体だ。もちろん私はスペイン語を読めないので、鼓直の訳による日本語しか読めないのだが、「マコンド」という都市で生じた事件を淡々と報道するように記述し、それを積み重ねる文章はその積み重ねがある限度を超えたときに突然読者を揺さぶるような効果を発揮する。
 とてつもない美貌を持ちながら、それに本人が全く気づいていないために周囲の男達を不幸にしてしまう小町娘レメディオスが突然昇天してしまうというシーン。

 仕事にかかるかかからないかにアマランタが、小町娘のレメディオスの顔が透きとおって見えるほど異様に青白いことに気づいて、
「どこか具合でも悪いの?」と尋ねた。
 すると、シーツの向こう把持を持った小町娘のレメディオスは、相手を哀れむような微笑を浮かべて答えた。
「いいえ、その反対よ。こんなに気分がいいのは初めて」
 彼女がそう言ったとたんに、フェルナンダは、光をはらんだ弱々しい風がその手からシーツを奪って、いっぱいにひろげるのを見た。自分のペチコートのレース飾りが妖しく震えるのを感じたアマランタが、よろけまいとして賢明にシーツにしがみついた瞬間である。小町娘のレメディオスの身体がふわりと宙に浮いた。ほとんど視力を失っていたが、ウルスラひとりが落ち着いていて、この防ぎようのない風の本性を見きわめ、シーツを光の手にゆだねた。めまぐるしくはばたくシーツに包まれながら、別れの手を振っている小町娘のレメディオスの姿が見えた。彼女がシーツに抱かれて舞い上がり、黄金虫やダリヤの花のただよう風を見捨て、午後の四時も終わろうとする風のなかを抜けて、最も高く飛ぶことのできる記憶の鳥でさえおっていけないはるかな高みへ、永遠に姿を消した。(p252)

   なんと、美しいシーンだろうか。『エレンディア』同様、この小説では今のわれわれの世界では起こりえないようなことがいくつも起きる。しかしそれはこの文体のせいなのか、確実に起こりうるものとして自然に納得される。そしてこのようなエピソードが大きなものから小さなものまでちりばめられ続け、そのひとつひとつをじっくり味わうことによって百年間のマコンドの消長を実体のあるものとして私は受け止めていくのだった。似たような名前の人物が似たような行動を取り続ける。反復されながら変奏されるエピソードの積み重ねを読みながら、人間なんて結局時代が変わろうとも同じようなものなのだ、という失望というよりむしろ安心できる感情に至る。
 ところで、ほんとに人名が分かりづらい。子供に自分と同じ名前を付けたりして、それが繰り返されて、誰が誰だか分からなくなってしまうのだ。池澤夏樹の『世界文学を読みほどく』に人名表と、この小説の各章ごとのエピソードをわかりやすくまとめた表があったので、ひじょうに参考になった。 
 具合の悪いあいだ、この本に戻っていくのが楽しみだった。またいつか読みたい。







百年の孤独 百年の孤独
G. ガルシア=マルケス (1999/08)
新潮社

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2007年06月23日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『ギリシア神話 知れば知るほど』丹羽隆子監修
  『神曲』に出てくるギリシア神話がほとんど分からなかったと言うことで手に入れた本。ほんとに入門的な本だと思うが、あまりに多くの神様と人間が出てくるのでわけが分からなくなる。たぶん、こういう類の本を何冊か読まないと理解はできないだろうな、と思った。
  それにしてもゼウスの女好きは目に余る。たぶん誰でも最初の感想はこれだろう。目についた女性を手当たり次第である。しかもどんな手を使ってもである。  地下牢に幽閉されていたダナエに会うために雨に姿を変え、屋根のすきまから忍び込んだり、アルクメネの婚約者がいない隙に、その婚約者に変身したり、やり放題。その結果、関係者が死んだり、遠くへとばされたり、むちゃくちゃである。  嫉妬やら憎しみの連鎖やら近親相姦やら、東海テレビ制作のどろどろ昼ドラ(見たことないけど)を超えている。しかし、まあ梗概しか読んでなくて、もっと原典に近いものに当たったら感想も変わるかも知れないが、思ったことはどろどろな関係であるにせよ、読んでいてそんなにうっとうしくない、ということだ。倫理感の違い、というと元も子もないが、誰もがそういうことをしてしまうのはしょうがないことだ、という前提があるのだろうか。
  例えば、英雄テセウスの妻と子供の話。適当に文章を拾うとこんな感じ。

 アンティオペはテセウスの子ヒッポリュトスという男子を産んで死去。
  テセウスは息子の養育を祖父ピッテウスに任せた。
  テセウスが生まれ育った故郷トロイゼンでヒッポリュトスはすくすくと育った。
  アルテミスを崇拝するヒッポリュトスは生涯独身を貫くことを誓っていた。
  父に会うためヒッポリュトスはアテナイへ帰ってきた。
  テセウスの後妻パイドラは継子であるヒッポリュトスに恋いこがれた。
  憔悴したパイドラは乳母を経由してヒッポリュトスに気持ちを伝えた。
  純真で潔癖性の青年は激怒し、「なんとおぞましく、汚らわしい女だ!」と継母をののしった。
 それを聞いたパイドラは、遺書をしたためて首を吊った。
  遺書には「義理の息子ヒッポリュトスに辱めを受けたため、死んでお詫びをします」と書かれていた。
  偽の遺書にすっかりだまされたテセウスは聞く耳を持たず、息子に国外追放を命令。それどころか、テセウスは海神ポセイドンに息子の死を祈った。
  ヒッポリュトスは馬車でアテナイをさる途中、ポセイドンの遣わした怪物の襲撃を受けて重体。
  テセウスの腕に抱かれながら最後の瞬間まで無実を訴えた。  テセウスも己の過ちを悟り、息子に詫びたが、ヒッポリュトスは父の腕の中で息を引絶えた。

  パイドラも義理の息子に憔悴するまで恋することもないと思うが、そういうわけにはいかない。だって恋しちゃったんだから。誰が悪い、と言いきれない。結局、人間(神様の話としても)の能力なんて卑小なものに過ぎない。話の多くが神託や予言で大きく展開する。神意とか運命みたいなものがある以上、俺たちはその中でやるだけやるしかないじゃないか、という、あきらめではないけど、どこか無責任なところがあって、それが風通しの良さを感じるひとつの要因かもしれない。
  さて、この流れで『オデュッセイア』を読み、そして『ユリシーズ』を読む、という壮大な計画が自分の中ではあるが、いったいそんなことができるのだろうか。
2007年06月17日 | Comment:0 | TrackBack:1 | | | Top↑ |
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