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『生物と無生物のあいだ』福岡伸一
 タイトルは「生物と無生物のちがい」みたいなものと考えればよいのだろう。 

 もし生命を「自己複製するもの」と定義するなら、ウイルスはまぎれもなく生命体である。ウイルスが細胞に取りついてそのシステムを乗っ取り、自らを増やす様相は、さながら寄生虫と全く変わるところがない。しかしウイルス粒子単体を眺めれば、それは無機的で、皇室の機械的オブジェに過ぎず、そこには生命の律動はない。
 ウイルスを生物とするか無生物とするかは長らく論争の的であった。いまだに決着していないといってもよい。それはとりもなおさず生命とは何かを定義する論争でもあるからだ。本稿の目的もまたそこにある。生物と無生物のあいだにはいったいどのような界面があるのだろうか。私はそれを今一度、定義してみたい。
 結論を端的にいえば、私は、ウイルスを生物であるとは定義しない。つまり生命とは自己複製するシステムである、との定義は不十分だと考えるのである。(p37)

では、いったいどのような定義とすべきなのか。

 生命とは動的平衡(ダイナミック・イクイリブリアム)にある流れである。(p167)

というのが著者の考えである。
 どういうことか。細胞やらが死んで新たな細胞ができて、新陳代謝がなされるから、5年前の私と今の私では細胞としては違うもんだよ、みたいなことをどこかでぼんやりと聞いたことがあるような気がするが、おおざっぱに言うとそういうことだ。ただ、マウスを使った、餌の中の物質が身体にどれだけ取り込まれて、どれだけが取り込まれないか、という実験で判明している事実というのは細胞とか言うレベルではなく、もっと小さな分子レベルの話。

 体内に取り込まれたアミノ酸(この場合はロイシン)は、更に細かく分断されて、改めて再分配され、各アミノ酸を再構成していたのだ。それがいちいちタンパク質に組み上げられる。つまり、絶え間なく分解されて入れ替わっているのはアミノ酸よりも更に下位の分子レベルということになる。これは全く驚くべきことだった。
 外から来た重窒素アミノ酸は分解されつつ再構成されて、ネズミの身体の中をまさにくまなく通り過ぎていったのである。しかし通り過ぎたという表現は正確ではない。なぜなら、そこに物質が「通り過ぎる」べき入れ物があったわけではなく、、ここで入れ物と呼んでいるもの自体を、通り過ぎつつある物質が、一時、形作っていたに過ぎないからである。
 つまりここにあるのは、流れそのものでしかない。(p161)

何故このようなシステムを生命がとっているのか。エントロピー増大の法則に抗うのは、強度の高いシステムを作ることではなく、時間とともにエントロピーが増える構成要素をあえて捨てて、あたらしいものを作り出し続ける、ということがもっとも効果的だからだという。

 エントロピー増大の法則は容赦なく生体を構成する成分にも降りかかる。高分子は酸化され分断される。集合体は離散し、反応は乱れる。タンパク質は損傷を受け変性する。しかし、もし、やがては崩壊する構成成分をあえて先回りして分解し、このような乱雑さが蓄積するよりも早く、常に再構築を行うことができれば、結果的にその仕組みは、増大するエントロピーを系の外部に捨てていることになる。
 つまり、エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体を流れの中に置くことなのである。つまり流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになるのだ。(p167)

例えば現実の組織(職場など)についてアナロジーで語れる、と貧乏くさく考えたりすることもできる、よい文章だ。しかしそれより、自分自身の身体がそういうシステムになっていることに、さわやかさとか、それこそ流れみたいなものを感じて、少しいい気分になった、というところだろうか。

  本筋ではないが、野口英世の業績が今ではほとんどが間違ったものとして全く顧みられていない、という話は何となくショックだったなあ。
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2007年05月27日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『夜明け前のセレスティーノ』レイナルド・アレナス 安藤哲行訳
 これは私には全く歯が立たなかった小説でした。
  とりあえず、訳者の解説から。  

  夜でも朝でもない「夜明け前」は、自我が確立し社会に組み込まれる以前の主人公=語り手(十歳くらいの男の子)の世界を示す。「ぼくのかあちゃん」「おかあちゃん」「かあちゃん」「ママ」「かあさん」と母親を呼ぶ(指す)言葉は、場面、状況によって使い分けているわけではない。また、ものが見えるか見えないかと言った「夜明け前の」時間帯はまさしく、主人公が現実と非現実との境にいることを表す。一方「井戸」は主人公ばかりか、その家族、家をも包む閉塞感の象徴となる。(p314)

『夜明け前のセレスティーノ』には読者の想像力と注意力を試すかのようなイメージとメタファーが氾濫している。それでも足りないかのように加えられる引用の多さ。(p316)

 レイナルド・アレナスは1943年7月16日、キューバのオリエンテ州の寒村に生まれ、90年12月7日、ニューヨークのマンハッタンのアパートメントで鎮痛剤を大量に飲んで自殺。寒村での幼少期、オルギンという町での思春期、59年のキューバ革命、反体制分子とにらまれて弾圧、逮捕、刑務所入り、その日暮らしのピカレスク的生活、80年のマリエル港からの脱出、合州国への亡命、エイズ感染といった47年のその波乱に満ちた生涯については自叙伝『夜になる前に』(邦訳、国書刊行会)に詳しい。(p318)

  ガルシア・マルケスの勢いを借りて、今まで何度かチャレンジしたこの小説を読んでみたのだが、むずかしい。斧を振り回すおじいちゃんや、いじわるなおばあちゃん、いじわるだったり優しかったりする「かあちゃん」、木という木に詩を書くセレスティーノ、そして僕。それが特に何の順序もなく、詩のような言葉の連なりが繰り返される。動物や虫や「一月」が話をし、僕やセレスティーノは空を飛び、じいさんもばあさんも母親も僕もセレスティーノも何度も死ぬ。途中でこれは読み通せないと思い、それでも何とか読んだのだが、あとで気づくと、読み継ぐたびに読み終わった場所をはじめて読むように読んでいた。まるで読んでない。ページの上っ面をなぞっているようだった。正直言って今の私では読みこなすことはできない。今後も読めるのかどうかは分からない。

  そのときママは地面にかがみ込み、ぼくと二人でマリーゴールドを抜きはじめ、両手で持てないくらいになると、マリーゴールドの山を作った。その山があんまり大きかったので空に届いて、そこに穴を開けていった・・・・・・

「セレスティーノ!セレスティーノ!タイランチョウのヒナ、もう死んでる!・・・・・・」

  そしてその穴から僕のかあちゃんは姿を消した。ぼくはかあちゃんを呼んだ。でも穴は再びしまった。そしてぼくひとりになった。マリーゴールド一色の野原の真ん中で。あんまりいいにおいだったので鼻を閉じたり開けたりして遊び、そのにおいがおいしいものだと気づいた。どんなに読んでもぼくのかあちゃんは現われなかった。石の下まで調べたけど、見つけたのはサソリの群れだけで、「ここにはいない」「ここにはいない」と言われた。結局あきらめて家に向かった。そして帰り道、死んだタイランチョウのおそなえにするためにマリーゴールドをつみに山に行ったことを思いだした。でも振り返ると、目に入ったのはぼくのかあちゃんだけで、鞭を手に、ぼくのいるところまで走ってきて、こう言った。
「水をくみに行くか、今日は家に入らないか!あのごくつぶしのセレスティーノが来てからは、お前はいつもあの子といっしょにいて、バケツの水一杯、運んでこない!ああ、でももう遊びはおしまい。水を運ぶか、家で寝ないか!聞こえた!?」(p86)

  こう言った部分の中から現実と非現実を選り分けて読んでいくべきなのだろうか。そういう読みをすればもっと深く読めたのかもしれないが、そうではないように思った。逆に現実とか非現実という区分じたいが間違っているのではないか。解説の引用にあるようにこの小説は自我が確立する前の十歳くらいの男の子の語りで成り立つ。つまり、幼児の世界とはこの小説のようなものではないのか。時間の前後や、空間的な距離、歴史、などなど、大人の論理の基盤となるものが存在しなければ、きっとこのような語り口になっていくのだろう。ことばだけがどんどんふくらんでいき、それが統御されずに並んでいる世界。いまの私にはほとんどわからないとしても、こういうイメージによって自分が生きていたということをこういう本が教えてくれる。わけが分からない、と否定するべきではないのだ。
  とは言いつつも中原昌也のほうがずうっとわかりやすかったことも事実であった。
2007年05月24日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『エレンディラ』ガルシア・マルケス 鼓直・木村榮一訳
 久しぶりに小説を読んでいて、こころがひっくり返されるような気がした。短篇集で、以下の七編からなる。
 1『大きな翼のある、ひどく年取った男』
 2『失われた時の海』
 3『この世でいちばん美しい水死人』
 4『愛の彼方の変わることなき死』
 5『幽霊船の最後の航海』
 6『奇跡の行商人、善人のブラカマン』
 7『無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語』
  ガルシア・マルケスといえば、いわゆるグロテスクリアリズム、というやつで、この小説でも日常の生活に天使が出てきたり、人が宙に浮いたりということがふつうに出てくる。日本の小説でそういうことを書こうと思うとする。小説なんだから何を書いたって構わないわけだ。ほら話なのだから。だが、やはりたぶん力む。最初から異空間として設定したうえで、そこに奇怪なものを持ち込むかたちであればできそうだ。しかし、ほんとうにふつうの生活をベースにしたなかで、奇跡が起きた、的な書き方でなくて、非日常であるのにそれがあっても不思議はない、というふうに読む人に納得させる書き方はたぶん難しい。

  神父は気を落とし、すっかり当惑してしまった。銅の小皿をもって村じゅう歩き回り、教会建設の寄進を募ったがわずかな金額しか集まらなかった。あまり嘆願しすぎたために、徐々に身体が透き通ってゆき、骨がカラカラ音を立てるようになった。日曜日には、身体が地上から40センチばかり浮き上がったが、誰ひとり気づかなかった。(『失われた時の海』p47)

  グロテスクリアリズムはもちろんだが、文章の高密度なところがすばらしい。文章ひとつの情報量がとてつもなく多いのだ。そして、加藤典洋の言うところの「文間の深さ」が深い。文章と次の文章の連なりがゆるやかでなく、ある種の断絶を含んでいる、というのか。短編小説であるから同じ散文であっても、長編と比べると無駄な言葉は排される、ということはあるだろうが、マテリアルとしての言葉が心に食い込んでくる感じがある。情念みたいなものが文章から慎重に排されていて、そのくせ深く刺さる。
  薄汚れた天使が出てくる『大きな翼のある、ひどく年取った男』。まるで夢の話であるような(グロテスクリアリズムというのはきっと夢の論理であるのに違いない)『失われた時の海』がよかった。  そして表題作で少し長い7。エレンディアは祖母と二人暮らしの女の子。祖母にこき使われている。ろうそくが風で倒れ、住んでいた御殿が全焼、祖母はエレンディアから損害分を償わせる。エレンディアは祖母の監視下のもと男に身体を売り、祖母はその金を巻き上げる。砂漠の中その商売を続けていく。ウリセスという男の子がエレンディアと恋に落ち、彼女を救おうとするのだが、失敗してしまう。エレンディアは祖母を自分で殺すことはできない、というので、ウリセスが失敗しつつ最終的に祖母を刺し殺す。疲れ切ったウリセスをエレンディアは全く無視し放置して、祖母の金の延べ棒のチョッキをつかんで駆けだしていく。

  彼女は風に逆らいながら、鹿よりも速く駆けていた。この世のもののいかなる声にも彼女を引きとめる力はなかった。彼女は後ろを振り向かずに、熱気の立ちのぼる塩湖や滑石の火口、眠っているような水上の集落などを駆け抜けていった。やがて自然の知恵に満ちあふれた海は尽きて、砂漠が始まった。それでも金の延べ棒のチョッキを抱いた彼女は、荒れ狂う風や永遠に変わらない落日の彼方を目指して走りつづけた。その後の消息は杳として分からない。彼女の不運の証しとなるものも何一つ残っていない。(p191)

ここだけ引用しても分かりづらいとは思います。ここまで来る苦難の道のりがあって、その上で、この最後の部分でカタルシスを味わうのだ。このあと、エレンディアが幸せになったのかどうかは知らないけど、なんかエレンディアすごくかっこいいなあ、と思ってしまう。ちょうど昨日第2巻を読んだ『セクシーボイスアンドロボ』の二湖と姿がダブってしまった。凛々しく走りつづける女の子はやっぱりかっこいいし、凛々しく走りつづけられるのはたぶん女の子なのだろうな。
2007年05月20日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『地下室の手記』ドストエフスキー 安岡治子訳
 光文社の古典新訳文庫で読んでみた。たぶんずっと昔に新潮文庫で読んだのだろうが、いつものように内容をほとんど覚えておらず、はじめてのように読めた。
 第1部「地下室」は哲学書のような体裁。一般的にこの小説を評す際によく言われる「自意識過剰な男」である「俺」(40歳)が過去を振り返り、持論を展開する。例えばこんな感じ。

  しかし、百回でも繰り返してあんた方に言いたいのだが、人間が自分にとって有害な愚かしい、どこから見ても愚の骨頂とさえ言える ことを、わざと意識的に望みうるケースがひとつ、そう、たったひとつだけあるのだ。それはまさに、己のために愚の骨頂さえも望む権利、己のために賢明なることを望むという義務から解放される権利を持つことなのだ。(p58)

この持論とは、私が読んだところ、たぶん以前読んだ高橋源一郎『文学じゃないかもしれない症候群』の『「有害」コミック問題を考える』についてのこのようなところとよく似ていると思った。

  ポルノグラフィーの最大の傑作はサド侯爵によって書かれたいくつかの著作だが、かれの作品には、おれたちが「文学」という言葉か らイメージする肯定的なもの一切と相いれないものが存在している。
  たとえば、それは「人格を毀損する自由」である。いいかえるなら「人をモノとして辱め、絶望させることによってのみ、回復される 自由」であり、もちろん、こんな自由は誰によっても擁護されることはない。だが、やっかいなことに、サドが想像の中に構築したこの 「自由」は、どんな肯定的な「自由」よりも大きな解放感を人に与えることができるのである。(朝日文芸文庫 p125)

倫理を深く考えたら、たぶん、こういう答えになるのではなかろうか。新聞やテレビやわれわれが普段使っている「倫理」とは別の、もっと根源的な生きていくための倫理。ドストエフスキーはやっぱりなかなかひねくれている。
 ちなみに高橋源一郎のこの評論はかなりいけています。源ちゃんの評論はだいたい好きだけど、そのなかでも屈指。

 第2部「ぼた雪に寄せて」はドストエフスキーのうまさが発揮された小説らしい小説。「俺」の24歳の時の出来事を書いている。
 学生時代の嫌いな知人が遠くに転勤になるので壮行会をやろう、と、やはりあまり好んでつき合っているわけでもない別の知人が言っているのを聞いて、関わらなければいいものを(と自分でもわかっていながら)、わざわざ参加する。始まるのは5時ということを聞いていたので、時間よりも前に食事の場所に行ったら、知らない間に6時に変更されていて、1時間も待ちぼうけを食らわされたことから始まる(ほとんどいじめ)。食事は4人でおこなわれたのだが、語り手の「俺」は全く相手にされず、じゃあ帰ればいいものを帰らないで、暴言を吐いたりして更にますますいやな思いをする。読んでいてもなんだか陰鬱になってくるが、合間に挿入されるのがたとえばこんなほとんどお笑いのネタ。

〈今こそ、こいつら全員に酒瓶を投げつけてやれ〉と俺は考え、酒瓶を手に取ると・・・・・・自分のコップをいっぱいに満たした。(p155)

結局「俺」を置き去りにして3人は娼館へ向かい、それならそれで帰ればいいものを、馬車の馭者を殴り急がせてまで追いかける。しかし娼館で彼らを見つけることはできなかった。
 疲れて入った娼館の部屋で「リーザ」という娼婦に出会う。暗い部屋の中で「俺」はリーザに励ますようなことを心ならずも言ってしまい、自分の住所を書いた紙を手渡す。
 このリーザとの出会いは「俺」にとっては重大なことである。

 奇妙なことに、昨日のあらゆる思い出の中で、リーザに関する思い出だけが、なにか特別なものであり、他のものとは全く別に俺を苦しめていた。(p218)

しばらくしてやってきたリーザに対して、リーザとの思い出に苦しめられていた「俺」はほとんどヒステリー状態になり、リーザに対して激しく侮辱めいたことを言い、その勢いで自分の愚劣さを告白するように泣きながら話し続けるのだが、

 ところがここで、不意に、奇妙な事態が起きた。(中略)俺に侮辱され、ぺしゃんこに押しつぶされていたリーザが、実は俺が想像したよりもずっと多くのことをちゃんと理解していたのである。彼女は、これらすべてのことから、女性がもし心から愛しているなら、常に何にもまして真っ先に悟ること──つまり、俺自身が不幸なのだ、ということを読み取っていたのである。(p247)

 すると彼女は、不意に俺に駆け寄り、俺の首っ玉を両手で抱きしめると、泣き出した俺も堪えきれずに、いまだかつて経験したこともないほど激しく、わっと号泣した・・・・・・。(p248)

このへんはかなり盛り上がり、小説としては意外な展開でまさにクライマックス。読み物としての小説ならばここで終わってもいいくらいのもんだが、自意識過剰な男はこの状況で自分を失ったことからすぐ抜けだしてしまう。自失した自分を冷ややかに見始める。このあとリーザを抱くのだが、そのあとにリーザに5ルーブルを握らせる。つまり心が通い合った、的な状況だったのに、いきなり娼婦として扱うわけだ。そんなことしなくてもいいのに、わざわざ。すごいなあ。
 そして「俺」は最後まで自分を客観的に見続けようとし、この手記について評論する。

 小説には、ヒーローが必要だが、ここにはわざとアンチヒーローのあらゆる特性が集められている。それに、肝腎なのは、この一切が、この上もなく不愉快な印象を与えるという点だ。(p259)

自意識が強すぎて行動できなくなる、ということは私にはよくあった。そして、自意識が強すぎるために自分のしようとしていることと全く正反対のことをしてしまう、ということもよくあった。つまりはこの小説もある程度自分のことが書かれている、という点でおもしろいとは言える。ただ、ドストエフスキーの小説は、そんな人物を書けば通常つまらなくなりそう(仮に、私が自分のことをそのまま書けばきっとつまらない。あたりまえだが)なのに、これをとびきり面白く読ませてしまうのがすごい。そして「アンチヒーロー」が「この上もなく不愉快な印象を与えている」のは事実なのにもかかわらず、善行が書き連ねられた文章よりもずっと大きな解放感を味わうことができるのが、すばらしい。
2007年05月19日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『仏教と日本人』阿満利麿  このあいだ読んだ『日本仏教史』とよく似たテーマを取り上げた本。『日本仏教史』のテーマを橋本治はこう解説していた。  この本は、「日本の仏教の歴史を書く本」ではなくて、「日本にやってきた仏教というものが"日本の仏教"という独特なものに変化 してしまったのは何故か?何故日本人はそのことを不思議に思わないでいるのか?」ということの理由を探ろうとする本です。  一方、本書については、著者が次のように述べている。  本書で、私が試みようとするのは、多くの日本人が仏教という言葉でイメージする事柄のすべてが、まぎれもなく仏教なのであり、そ れは、インドに発し、中国や朝鮮半島で発展した仏教とは、種々の点で異なりながらも、しかし、仏教の筋は貫かれている、と言う事実を紹介すること、にある。一言でいえば、日本人が作った仏教とはどのようなものであったのか、を描きたいのである。(P10)  いずれにしても、仏教はすっかり日本文化の血肉とかしているだけに、純粋の仏教とか本来の仏教とか、という議論はあまり意味を持たない。日本人が「仏教」と呼ぶものはどのようなものでも「仏教」なのである。大切なことは、今、私たちの目前にある「仏教」がどのようにして生まれたのか、その道筋を明らかにすることであろう。その道筋にこそ、日本人の想像力がはたらいているのである。(p216)  日本の仏教が外来のものであり、しかもそれはいまや全くオリジナルと違っている。それにもかかわらず、仏教は日本人に根付いている。どういう経緯で仏教が日本に根付き、どういう変容を辿ってきたのか、それを理解しなければ、現在の自分を含む社会、日本人の枠組みが把握できないだろう、というわけである。同じようなことを『日本仏教史』でも書いた気がするけど。  著者はもともと日本に存在した自然宗教、つまり神道ではない「カミ」に対する信仰に、仏教がその弱点を補うようなかたちで入ってきた、と推測する。例えば死者について。    ふりかえれば、仏教を知る前の日本人は、死者の扱いについて、ほぼ忌避に終始したと考えられる。肉親であっても、死ねば、場合によれば祟りをなす不気味なモノになるのであり、日常の暮らしと一線を画した世界に封じ込めておく必要があった。だが、仏教徒であることで、死者も祀れば恐ろしくないことを学び、いつの頃からか、先祖祭祀の観念も生まれてきた。(p51)  地蔵、地獄と極楽の位置関係、日本の僧侶のみが肉食妻帯であること、仏像、神道との関係、そして葬式仏教。現代の日本人の基層にある仏教が伝来する以前のどういう位置に入り込んできたのか、そして、伝来以前の自然宗教の影響によってどのように仏教が変わったのかを述べている。柳田国男が何度も引用されている。柳田国男についてもほとんど読んだことがないので、ちょっと興味が出てきた。    ついでに。地蔵についての研究で、『賽の河原地蔵和讃』の物語が出てくる。賽の河原の話については漠然としか知らなかったが、なかなか物語としてメリハリにとんだ、いい話である。  幼くして亡くなった子供の霊が行き場をなくしていて、しかも鬼に虐待される。鬼が虐待する理由は親の嘆きと、子供が母に乳が出ないときに母の胸を打って母を苦しめたということ。それを救いにやってくる地蔵菩薩。物語の基本形だなあ、と思ったりした。 http://kyoto.cool.ne.jp/jizo/Prejizo/wasan.shtml
2007年05月13日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『私たちは、どうつながっているのか ネットワークの科学を応用する』増田直紀  著者略歴によれば、複雑ネットワークと脳の理論を研究している、ということである。書店で手に取り、人間関係を科学的に分析する、というアプローチが面白そうだったので衝動買いした。ざっと読んだ限りでは、普段私が人間関係について考えていることが、テクニカルタームによって概念化された、というところだろうか。  キーワードは「6次の隔たり」「スモールワールド」「クラスター」「スケールフリー」というあたりか。  6次の隔たりとは、自分と赤の他人がどのくらいの距離でつながっているか、ということの標語的なもの。ある特定の、しかし全く知らない人物に手紙やらメールやらでたどり着くにあたっては100次ほどの次数を介すことなく、6次程度で届きますよ、ということ。  スモールワールドは6次の隔たりで象徴されるように、広いように見える社会もネットワークのレベルで考えると意外と小さいですよ、ということ。  クラスターとはいわばコミュニティ、内輪のことで、ネットワークとしては閉じてしまっているために効率は悪く見えるけど、人間として生きていくうえでは精神的な基盤としても必要だし、また、組織としても代替が効くという意味では危機管理のうえで重要な要素であると言うこと。  スケールフリーとは、ネットワークを抽象化して考えるとしても、多くの人とつながっている人、ほとんどつながっていない人、というふうに極端な差が生じてしまう事実。その中で多くの人とつながっている人、中心人物を「ハブ」と呼ぶ。    著者はこういった概念を説明したうえで、しかし決してビジネス書みたいに「のし上がっていくうえでは「ハブ」を目指さなければいけない。そのためにはどうすればいいか」ということは言わない。まあ、のし上がるためにはたぶんハブにならなくてはいけないんだが、別にそれが唯一のやり方ではないだろう、という。ハブのそばでおいしいところをさらうやり方、そんなにいつも情報情報とがんばらないで静かに生きていく、いろいろあるよ、と言う。それを選び取るためにはむしろネットワークの全体の概念というものをつかまえて、自分のいまの立ち位置、目標とすべき位置を分かっておいた方がいいのに違いない。    「6次の隔たり」を説明する中で、山岸俊男の「信頼の解き放ち理論」について言及している箇所が興味深かった。「アメリカ人は日本人よりも他人を信頼する」。つまりアメリカ人はたぶん日本人よりもオープンでフランクであると一般に言えそうだが、これは被験者を用いた実験でも裏付けられているそうで、アメリカ人は赤の他人に対して一般的信頼を持っている。  赤の他人を信頼する人は、単なるお人よしではない。調査によると、他人を信頼する度合いの高い人は、初対面の人が信頼に足るかどうかを見極めつつ信頼することがわかっている。そのような人の見極め能力は、頭ごなしに他人を信頼しない人よりも高く、この意味で、他人を信頼する人には知性がある。信頼があれば、離れたコミュニティにいる人同士が近道を作り、情報交換を容易に行える。  これに対して、日本人が身近な人を信用することは、一般的信頼ではなく「安心」と定義される。信頼と安心は対極にあり、信用という言葉は曖昧に用いられていて、すべて内容が違うのである。(p62)  と言う現状を見極めつつ「内輪づきあいへの偏向を他人を信頼することによって解き放ち、一般的信頼の成立する社会を目指す」というのが信頼の解き放ち理論ということである。著者はそれを認めたうえで、内輪の必要性も述べているわけだが。  これって結局石川忠司の『孔子の哲学』で言っていた「明けすけな人間」ともつながる話で、私にとってはとても重要なことに思えた。どうしてこういうところに引っかかるかというと、自分があまりにも典型的な日本人であって、なかなか他人を信頼することができない、うち解けられないということを自覚しているからなのだ。  考えてみれば、この本を手に取ったのだって、結局人間関係について常日頃からなんとなーくしっくりいかないことへの解決法を探していたからなのかも知れなかったのである。十代の頃、『人とつき合う法』(河盛好蔵)を買いつつも、こんなもん読んでちゃだめだ、と考えていたこともついでに思い出した。  今さらだけど、知的なフランクなオープンな人になれるよう、多少がんばってます。
2007年05月12日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『孔子の哲学 「仁」とは何か』石川忠司  『極太!!思想家列伝』で一気に私の中で重要な批評家となった石川忠司の本を探していたら、このタイトルで、孔子かよ、と首をかしげながら手に入れ読み始めた。  結局、いつもの石川忠司なのだが、ただ、やはり孔子についてはあまりにも私が何も知らなすぎ、ましてや「仁」とはなにか、と言われても「仁」について考えてもいなかったので、入り込みづらい部分があり、また、理解しきれないところも多かった。『論語』を読んでから出直した方がいいかもしれない。ただ、これから『論語』を読むにあたっても、この本を読んでしまったことで「人生論としての論語」みたいな読み方がきっとできなくなってしまうのだろうなあ。そういえば、昔むかし、『論語』は読んだような気がする。 『論語』をはじめて読んだ人は、きっと誰もが「至極あたり前のことしか書いてない」と思うに違いない。「親孝行して、広く人間を愛せだって?そうすれば人格的な高みに到達できると言うんだろう?あたり前じゃないか」と。(p133)  たぶん、説教臭を感じつつ私も『論語』を読んだのだと思う。しかし石川の『論語』の読みは違う。孔子は高潔な人格者ではなく、むしろ不穏で、あけすけで、まさしく度量の大きな人間だ、という。「仁」について。 「仁」とは確かに「愛」や真心」かも知れないけれど、しかし人間の内面の奥深くに秘められた心的な場所で進行する隠された過程ではさらさらなく、逆に堂々と天下万民の前にさらけ出された外的かつ公共的なまさに「実体」にほかならない。(p19) 同様に、誰かが社会生活の中で「仁」的な振る舞いを「決心」したとするなら、表情、しぐさ、ものの言い方、言い回し、相手に対するリアクション、そして当の振る舞いが置かれた状況やコンテキストなどから、彼の「仁」を行おうとする「決心」を見てとることは実に容易いだろう。これはもう外的な「現われ」だけで直ちに了解できる事実なのであって、実際ぼくたちはいつもそうやってこの徳目に励みながら、まあたまには失敗もやらかしつつ、同時に他人の「仁」を敏感に察知しながら、日々を遣り繰りして生きている。(p20)  「仁」とは何か、はっきりと別の言葉には置き換えるのはいまの私には難しそうだが、人格とか人間とかパーソナリティとかとりあえずそんなイメージでどうだろうか。ここで私にとって重要だったのは、先に引用した部分で、章のタイトルに「ぼくたちは明けすけな人間を目指そう」とあるくらいなのだが、これがこのあいだ『考える人』という雑誌で橋本治が高橋源一郎との対談で話していたこととまったくもって同じことを言っていたことだった。 高橋 (略)僕が『蝶のゆくえ』を読ませた女の子とたちが、つまり当人が、「何でこの人は私たちのことがこんなにわかるんですか」って言ってるんですから。 橋本 というか、そんなに自分のことがわかられないと思っているの?って、逆に言いたいぐらいで。 高橋 びっくりする方がおかしいと。 橋本 うん。だって、人はだいたいばれてるものじゃない。そのばれてることを、何となく小出しにしながらつきあいを成り立たせているわけだから、自分が人に分かられるはずがないという前提で人とつき合うのはおかしいじゃない。  この部分を読んだときに私はショックを受けると同時に、楽になったのでした。いままで、思春期あたりから思っていたことは、生きていくうえで「内面」を大切にしていくためには 仮面をかぶり、ポーカーフェイスでいる方がいろいろ得なのだろう、ということでした。しかし、むしろそれは無駄で、だいたいばれていて、しかもかえって疲れるだけで、オープンにしておいた方がずっと有利なのだ、ということに目を見開かされたから。で、今度のこの「明けすけな人間を目指そう」ですから、今更ながらやり方を変えていこうという意を強くいたしました。  確か「内面」というものが発見されたのは近代だった、というのが柄谷行人『日本近代文学の起源』だったが、内面なんてどうだっていいんだ、一本筋を通しておけばなんでもありで生きていった方がいいんじゃないのか(一本筋を通す、ということがニーチェ哲学との差異か)、というのがあまりにおおざっぱではあるけれども、『孔子の哲学』の読後感だった。  後半部分については知識不足が否めず若干ついていけない部分があったが、もちろんそれは石川の文章のせいではない。また読み直します。著者の本ってあんまり出ていないから。
2007年05月10日 | Comment:0 | TrackBack:1 | | | Top↑ |
『日本仏教史-思想史としてのアプローチ-』末木文美士  著者の本は岩波新書の『日本宗教史』で初めて読んだが、仏教と神道との関係について初めて目を開かされた(神道の方がずうっと日本では古いと思っていたのだが、仏教が入ってきて、しばらくしてからそれに対して神道ができてきた)。そんなことは知っていて当たり前だったのかも知れないけれども。『日本宗教史』ではただ歴史を羅列していない。いわば柄谷行人みたいに何かをひっくり返して隠蔽されているものを取り出してこようとする感じが刺激的だった。  で、『日本仏教史』だが、こちらもなかなかおもしろいし、自分と仏教との関係を考え直すものとなった。  橋本治の解説が端的にこの本を説明している。  この本は、「日本の仏教の歴史を書く本」ではなくて、「日本にやってきた仏教というものが"日本の仏教"という独特なものに変化してしまったのは何故か?何故日本人はそのことを不思議に思わないでいるのか?」ということの理由を探ろうとする本です。(p398)  ずうっと不思議だったのだが、インドで発生した仏教が日本に至るにあたって同じものだったのか。「法華経」とかいろんななんとか経があるが、それはどういう言葉で書かれていたのか。そういうことがきちんと説明されている。要はインドから中国を経由して日本に入ってくるにあたって、当然仏教は変容してしまっている。もともとサンスクリット語であったものが中国で漢文に翻訳され、そしてそれがそのまま日本に受容された。ただ、漢文を訓読するにあたってかなり恣意的なところがあって、変容は著しいものがある。終章の「日本仏教への一視角」では、親鸞が漢文を強引な解釈によって「他力」を引っ張り出した部分が論証されている。   日本の仏教の変容については、「本覚思想」がキーワードとなっている。そもそも仏教というものは現世離脱的な要素を強く持っていて、すなわち出家に結びつく。しかし日本では出家、修行等々の戒律的なものがきらわれ、現世が全面的に肯定される思想に変化していった。現世を肯定する思想が本覚思想である。そしてそれは先にも言ったとおり、インドにおける仏教とは全くかけ離れてしまったものになってしまったということなのだ。  別にそれを著者は批判しているわけではない。ただ、どうしてそうなってしまったのか、ということをきちんと整理しておかねば、今後日本人として生きていくためにはたいへんでしょ、と言っている。実際葬式をはじめとして「日本の仏教」は私の回りに存在している。どうして私たちは仏教を変容させて受容しなければならなかったのか。私自身は宗教に対してある種反発する部分はいつも持っているが、それは特定の宗教っぽい宗教に対してであって、そんな自分が仏教をはじめとして宗教を無意識に受け入れている部分がたくさんあることについても自覚的にしていかねばならない。そのうえでこれからどう宗教に対していくのか考えていくつもりだ。そうしないといままで都同じようにずるずるに行ってしまうのではないか。    終章で、遠藤周作の『沈黙』から、キリスト教を布教しようとし失敗した宣教師の次の語りを引用している。    この国の者たちがあの頃信じたものはわれわれの神ではない。彼らの神々だった。(P363)  これはもちろんキリスト教だけではなく、仏教についても言えることだ。この宣教師は言う「どんな苗もその沼地に植えられれば根が腐りはじめる」。その沼地がこの国だ、という言葉は、日本のしたたかさ、というよりはむしろ宗教に限らず日本人のいい加減さをうまく言い表しており、それがまさに自分自身の問題でもあるように思ってしまったよ。
2007年05月07日 | Comment:0 | TrackBack:2 | | | Top↑ |
『過去のない男』アキ・カウリスマキ監督  いいです。ひじょうに。カウリスマキは村上春樹の導きで見るようになりました。この映画もしみじみして、かつ、ばかばかしい話でかなりよい。しかも映像がスタイリッシュ。わざわざワンカットで男が二人すっと向かい合って、握手して、二人が同時に回れ右をして去っていく、なんて場面は笑いつつもかっこいいなあ、と思いました。  若者たちにいきなり頭を殴られ、記憶を失った男が、別に記憶を求めるのではなく生きていこうとする話。だけど殴られて病院に担ぎ込まれた際、心肺停止しているのに突然むくっと起きあがってドラマは始まっていくのだが、これってキリストの復活かな、と思いながら見ていた。なんというか、別に神々しくなくて失敗ばかりしているけど(溶接がうまいという特技はある)、神ってこんな感じじゃないのかな、俗っぽくて、とずうっと見ていたのだが、深読みなのか。  登場人物が基本的にいい人ばかりなのがまたよい。コンテナに暮らしている貧しい人々、救世軍。すごくリアルで、そういう暮らしに作り手が敬意をもっていることがよく分かる。その辺が『フィッシャーキング』にも似ている。暴力的な若者に集団で逆襲するというシーンも似ているな。  音楽もよい。横山剣さんの歌が列車で流れてくるのも泣ける。そのとき主人公は鮨を食べて日本酒を飲んでいるんだなあ。
2007年05月07日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | 映画 | Top↑ |
『はじめての金融工学』真壁昭夫  デリバティブ、というものを仕事の関係で知っておく必要があって、とりあえず読んでみた。やはり数学の知識がないとちょっと読みこなせない。取り組めばできるのかもしれないが、Σなどの数式や記号などが出てきただけでだめになってしまう。数式が出てきただけで拒否反応を起こす、というのもかなり類型的な反応だが。よって読める部分だけを読み飛ばしたのだが(だめだなあ。昔の読み方になってきた)、面白いところはけっこうありました。  デリバティブについては「天候デリバティブ」が例に出されている。知らなかったのだが、東京電力と東京ガスは2001年6月に東京千代田区大手町の8月と9月の平均気温を対象とした天候デリバティブ契約を結んだのだそうだ。  その契約内容は、「平均気温が25.5℃を下回る(冷夏)と、東京ガスは東京電力にお金を払い、逆に平均気温が26.5℃を上回る(猛暑)と、東京電力が東京ガスにお金を払う」というものです。(p22)  東京電力は猛暑のときのほうが儲かり、冷夏のときは損をする。東京ガスは全くその逆。で、猛暑になるか、冷夏になるかというのは夏になってみないと分からない。夏は26℃にしかならない、ということであればそれに応じた設備投資なりをするわけだけど、そんなはずはないから。そこで予想できない天候のリスクをお互いに補填し合おう、というものなのだ。  このリスクの補填については、例えば銀行が企業にお金を貸す際にも「クレジット・デリバティブ」という商品で対応することになっている。  統計の基礎概念(p91)も参考になる。標準偏差、という概念が実はいままでよく分からなかったのだが、なんとなーく分かるようになってきた。これも数学(算数)だが、なんとかぎりぎり。統計とか確率に関してはずっと気になっていた部分なのでもう少し勉強してみたい。  よく聞くポートフォリオなんてことばについてもきちんと解説しされている。あまりお金を持たない自分だが。資産を分散投資した方がリスクを回避できるというもので、少し頭に入れておくと、資産運用には役に立つであろう(しつこいようだが、私には今のところあまり関係がない)。
2007年05月05日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』『子猫が読む乱暴者日記』中原昌也  続けて読んだのでひとまとめに。いずれも短編集だけど、何度か同一と思われる登場人物が現れる。だが、別にいわゆる短編連作、というわけではない。  そもそも、高橋源一郎と保坂和志という、私にとっての現代小説のもっとも敬愛する書き手の三人のうちの二人が大絶賛していなければ、中原昌也なんか読まなかっただろう。そして読んだとしても決して「面白かった」とか言えるわけがない。これがわかりますか?といういわば踏み絵みたいなものだから。ただ、読んでいると、私は楽しくはならなかったけど、とても気楽になった。どうして気楽になっているのか読みながら考えてみたが、思いついたことは作者の存在のうっとうしさみたいなものがない、ということだろうか。  一般に小説というものは伏線(物語、といってもよい)があって(それが意識的であろうとそうでなかろうと)、登場人物はその伏線のために奉仕させられているものではないだろうか。読み手は、次にこうなるとかこうならない、とかこの人は死ぬんだろう、とかいろいろ考えながら読んでいく。いままで読んできた小説というものはみんなそうだったからだ。しかし中原昌也の小説では登場人物はまるで使い捨てのように忘れ去られていく。例えばAという人物を中心にしていたとすると、その場面にBが現れたら、まるでAのことは忘れたようにB視点で小説が進んでいくというように。そしてAについてはもう言及されることはないのだ(Aに戻ってくるものもいくつかあったが、それは何となく風通しが悪い気がした)。結局普通の小説ならば、Aを引き立たせるためにBを持ってくる、なんていう思考(しつこいが無意識にしてもそれは必ずある)があって、それが小説を小説たらしめているはずなのだが、それが中原昌也の小説にはない。それがすがすがしいのだ。だから説教じみた言葉で終わってもいいし、ぶっつり切ってもいい。登場人物が伏線に奉仕しないように、小説じたいがなにかに奉仕しようという気が全くないから。  作者が『子猫が読む乱暴者日記』のあとがきで書いているようにこの小説は「何の役にも立たない」だろう。何の役にも立たなくていい、というのが小説なのだと思うけど。
2007年05月03日 | Comment:0 | TrackBack:1 | | | Top↑ |
『神曲 天国篇』ダンテ・アリギエーリ(寿岳文章訳)  結局天国篇も続けて読んだのだが、やはりきつかった。地獄篇、煉獄篇と違うのは、まず亡霊たちが光で現れてくるところ。かたちをなしていないのだ。だから当然描写が難しい。そして、何よりもキリスト教についてある程度きっちり分かっていないともはや読みようがない。当然前2篇についてもキリスト教の教養は必要だが、それがないとしても個々の亡霊たちの過去のエピソードなどで面白く読めるが、天国篇になるとイエスのあたりはもとより、それ以後のローマ帝国における聖人達、例えばフランチェスコなど、といったおそらくヨーロッパではメジャーな偉人をある程度分かっておかないとかなり難しい。なんといってもダンテは地球から水星、金星、太陽、火星、木星、土星、そして恒星天、と登っていき最終的に至高天でキリストやらと出会うというとんでもない話を構想しているわけで、このとんでもなさについていくには相当な覚悟が必要なのだ。で、私はあんまり覚悟ができていなかったのでほとんど読み飛ばす結果となった。再読しなければならないです。キリスト教とローマ帝国について基本的なことをきっちり押さえたうえで再度挑戦したい。  読み飛ばした中で印象的だったのは第22歌。恒星天まで昇ったダンテがベアトリーチェにうながされいままで登ってきた地球からの足取りを振り返るところ。  言われて私は、経登ってきた七つの天球のひとつひとつに再び目だけをもどし、最後に、この地球を眺めたが、そのあまりにもみすぼらしい姿に、思わず私はほほえんだ。(p318)  地球から遠く離れた星から地球を振り返って見る。スケールがちょっと違う。松本零士的な絵でもあるが、地球をみすぼらしい、と言いきってしまうところがつまらないヒューマニズムやらに流されない、ダンテのかっこよさだなあ。
2007年05月01日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
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