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『神曲 煉獄篇』ダンテ・アリギエーリ(寿岳文章訳)  結局煉獄編も続いて読んだ。地球をくぐり抜けて反対側に出てきたダンテとウェルギリウスはこんどは煉獄山を登る。ここでは浄罪をする人々の亡霊が罪の内容に応じてそれぞれの高さにいて、それを見ながら進んでいく。  パターン的には地獄篇と同じようなもの。ダンテが亡霊を見ていると、亡霊がダンテに影があることに驚き(ダンテは生きているから。亡霊の身体は日光を透過させるので影ができない)、あんたは何者だ?と聞いてくる。ダンテは私はベアトリーチェのもとに生きながら向かう者、で、あんたこそ誰さ?と問うと、亡霊が過去にどういうもので、どういう罪をおこない、どういう浄罪をしているのかを説明する。これをずうっと繰り返していく。近代の小説って、こういう繰り返しを省略する傾向にあると思うけど、で、実際読んでいて「また同じかよ、もういいよ」と最初は思っていたんだけど、しつこく同じパターンをしているとそのうちおかしみというか、これって人生だよなあ、と感じてしまう。日常ってそんなに毎日が変わるものではないですよね。そりゃ昨日と今日は違うし、同じことは起らない。だけどやっぱり繰り返しなんだよなあ。こういう繰り返しを自分のためにも読者のためにもあえて続けることで厚みが生じる気がしました。  で、後半トーンが変わる。それまでウェルギリウスがずうっとダンテを引っ張って来たけど、もうダンテ、あんたが先頭に立って歩きなさい、というところでは、『我が青春の旅立ち』でそれまでリチャード・ギアにきびしくしていた鬼教官が自分が逆に部下になって送り出す、と言うところを連想する。このへんからかな。  終盤、第29歌(煉獄篇は天国篇と同じで全33歌。地獄篇が34歌なので、総計100歌となる)あたりからがらりと変わり、私自身はまだ見たことないけどオペラというかミュージカルというか、天使やら馬車やら出てきて花吹雪が舞い、大トリベアトリーチェが登場するあたりでうわーっと興奮してしまう感じになる。自分の中ではベートーベン第九の『歓喜の歌』の合唱の部分がBGMで鳴っていました。かっこいい。  ベアトリーチェはダンテが子供の頃出会ってその後青年期に再会したときに愛するようになった女性なんだが、彼女が別の男と結婚した後若くして亡くなり、永遠の女性となったという。で、神曲でダンテを迎えに来たベアトリーチェはダンテに、私が死んだ後いろんな女に心奪われたりしたでしょ、それじゃ堕落じゃないのまったくもう、とすごい責めようで、ダンテも泣き出しちゃって、ある種の痴話げんかに見えますが、俗世の愛を超越した愛をダンテは描こうとしている(らしい。中沢新一の解説によれば)ので、こういう下世話なレベルから語るというのもとてもわかりやすいし、説得力がある。そもそも神曲自体の構造が地獄から煉獄を登って天国へということで、いきなり天国を書かないということがひとつの作戦だったわけで、それがそれぞれのエピソードにも生かされている、ということなんだろう。  ダンテは自分のことを情けなく書いているところもなかなかかっこいい。火をくぐらないと次のステージに行けないという場面で、無理無理、私にはできません、とまるで上島竜平のように尻込みをする。じゃあ、私が、とはウェルギリウスは言わないが、熱くないよ、うそじゃないからさ、心配ないんだよ、と何度も何度もなだめすかしてやっとの思いで火をくぐり抜けたり、さっきのようにベアトリーチェにひどく叱責されたり。少しは自分をかっこよく見せようと思っていいような気もするが、当時の実際の敵を『神曲』のなかでばっさばっさと斬っているダンテは自分についても客観的に見ているところはこれまたすごいところだ。  煉獄を脱けた。ついに天国だが、煉獄の最後はちょっと意味が分からなくなってきたところも多い。少し整理してから天国篇に進みます。中沢新一の『愛の天体』という解説はすばらしい。
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2007年04月27日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『神曲 地獄篇』ダンテ・アリギエーリ(寿岳文章訳)  最初に海外旅行に行ったのはインドで、そこに『神曲』の岩波文庫版を持って行った。『神曲』をインドで読む、というセンスはわれながらなかなかだと思うが、結局読めなかった。ひとつには文章が全く読めなかった(山川丙三郎訳は格調高い文語で有名らしい)、と言うこと。もうひとつは内容とか構造を全く把握していなかったということ。このような大作に挑もうとするにはあまりにもひどいものです。  寿岳文章によるこの訳も文語体ながら特段難しいところはなかった。むしろ現代の日本語より簡潔なのですいすい行ける(理解しているかどうかは別として)という利点がある。  内容把握については、まず解説をきちんと読んで以前の失敗の反省とした。特に堀田善衛の解説が簡潔で分かりやすい。ダンテとは単なる文学者ではなく、政治家として働いていて抗争に巻き込まれフィレンツェから追放された、ということが『神曲』には色濃く反映されていて、当時の抗争相手やら何やらが続出している、ということを前もって分かっておけば、分からないことは分からないとあきらめて読み進めることができた。  要するに、ここにはダンテの視界の及ぶ限りの、神話世界以後の全歴史と全世界が配置されているのである。されば、誰が、何処に、如何なる理由によって、位置させられているかについての、これは百科全書でもあり得るものである。(堀田善衛解説『喜劇としての『神曲』について』(p502)  で中身だが、これはおもしろい。たぶんいろんなところで言われているとは思うのだが、これって「ドラクエ」だし、『ゲド戦記』と同じ。まあこっちの方が700年も早いんだけど。  大枠は、ダンテが気がついたら地獄に迷い込んでいて、そこから地球奥深く地獄を突き抜けて、煉獄を通り抜け、天国に行くという話。ガイドとして送り込まれたウェルギリウスという紀元前のローマの詩人がとても頼りになるんだが、この人に導かれて、いくつかの苦難(と言ってもほとんどウェルギリウスが片付けてくれるので、ダンテは亡霊からあんたは何者だ、という話を聞くだけ)を通り抜けていく。何かというとダンテはすぐ気を失うし、全くもって頼りない。  出てくるエピソードは、例えば大怪獣とか大巨人とか蛇と人間の身体が入れ替わるとか、糞尿まみれにされている亡霊とか、読む前に持っていたイメージよりはるかに下世話なものが多くてしかもかなり人間くさい。  当時の政治的状況を映している部分はもう分からなくていいや、と割り切れるが、ギリシャ神話の登場人物が頻出してきたり、カエサルをはじめとする歴史的人物が出てきた場合に自分の教養の無さを思い知った。ただ、これをすべて分かっているのは無理で、むしろ『神曲』を読み進めるうちにギリシャ神話について興味が出てきた。ギリシャ神話はかなりひどい話ばかりが引用されている。例えばレムノス島についての話。訳注から。  ギリシャ神話では、トアス王の治世、島の女達が女神アプロディテの祭祀を怠り女神の怒りに触れ、身体から悪臭を発するようにさせられた。島の男達はこの悪臭に耐えかね、トラキアから捉えてきた女を妻としたので、復讐に島の女達は一夜のうちに島の男を皆殺しにした。(p208)  なんか現代ってかなりソフィスティケートされている、というか、きれい事で成り立っているなあ、と思わずにいられないこの残虐性とかものすごさ。「ドラクエ」や『ゲド戦記』よりむしろ『神曲』及びそれに含まれるギリシャ神話世界の方がある種即物的。入っちゃうと癖になりそうな世界。  地獄巡りをしていき、最後に地獄の底=地球の中心を通り抜けると天地がひっくり返って煉獄に行く、というのが読んでてかなり気持ちいい。堀田が『神曲』は読みづらいけど、我慢して読んでいけば至福を得られる、と言っているのがよく分かりました。だけどやっぱりちょっと疲れた。煉獄篇はちょっと休んでからにしようかな。
2007年04月22日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『ゲッタウェイ』サム・ペキンパー監督  銀行強盗して、逃走して、国外に逃げのびることができるか、という話。「明日に向って撃て!」とか「俺たちに明日はない」とかの系統と見ている途中で判断。そうすると結局はうまく逃げ延びることはできないのだなあ、あああ、と暗い気持ちになりながら見ていたのだが、最終的には救われる映画でした。救われすぎなのが問題という意見もあるのかもしれないが、「フィッシャーキング」でも書きましたけどいかにハードルを高く設定して、それを超えようとするかというのが作り手の志みたいなもので、無理筋でも何でもとにかく強行突破してしまう、という感じが私にはよかった。  サム・ペキンパーは十年以上前に『ガルシアの首』を見た。なんというか、汗とか汚れとかぼろぼろの服とか、そういった「感じ」は同じで、それっていまの自分の生活からはずいぶん離れちゃっているだけにむしろよい「感じ」として見ていた。  救いの話に戻ると、救われているのは主人公たちと、それを見ている私だけで、出てくる挿話はどうしようも救いのない話が続出。スティーヴ・マックイーンを殺そうと追いかける男が、医者の夫婦の家に乱入し、銃で脅して車を夫に運転させるんだけど、奥さんの方が脅されていたはずの男とできてしまい、宿泊先では夫は椅子にテープでぐるぐる巻にされ、残る二人が情事に耽る。で、夫は結局首つって自殺してしまう、というのがもっとも救いのない話だが、それをまったく説明しようともせず、ただそこにある事実として淡々と描写していく手法はすごいなあ。そのとんでもないクールさが逆にハッピーエンドを納得させる力を持たせているのではないかと思った。  クインシー・ジョーンズの音楽がかっこいい。
2007年04月21日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | 映画 | Top↑ |
『利己的な遺伝子』リチャード・ドーキンス
 10年以上も前に友人から借りて読んだが、かなり急いで読み飛ばした。面白かったという記憶はあったがほとんど覚えていない。増補新装版が出ていたので手に入れてじっくり読むことにした。
 で、じっくり立ち向かうと、この本を読むことは非常に難渋することがわかった。文章が難しい。翻訳のせいかと思ったけど、そういうわけではなさそうで、著者が誤解されることをおそれているために非常に回りくどい言い方をしているからなのだろう。おそらく最初に読んだとき、その回りくどい表現の部分はほとんどすっ飛ばして読んだので記憶にないのに違いない。
 利己的な遺伝子、という考え方はいまや生物学について何も知らない私などにも浸透しているように思われる。つまりわれわれの身体は単に遺伝子の乗り物であって、遺伝子が自分を残すために乗り物である私たちは求愛やらなんやらの活動をしている、というように漠然とその考え方を理解していた。まあ、だいたいはそのとおりなのだが、特にその考え方を特徴づけるためにはもう一つ別の考え方があったことを押さえておかないといけない。それは利他的な行動をどう説明するかということで対立する。

 多くの地上営巣性の鳥は狐のような捕食者が近づいてきたときに、いわゆる「偽傷」ディスプレイをおこなう。親鳥は片方の翼が折れているかのようなしぐさで巣から離れるのである。捕食者は捕らえやすそうな獲物に気付いて、おびき寄せられ、雛のいる巣から離れる。(p9)

 利他的な行動とはこのように自らを犠牲もしくは危険にさらして他の個体を助けようとするものだ。
 群淘汰説という説はこういう行動を「生き物は「種の利益のために」、「集団の利益のために」物事をするように進化する」と考える説である。これは確かに人間から見て非常にけなげで胸打たれてわかりやすい物の見方だが、「利己的な遺伝子」で考えるとそうはならない。遺伝子レベルで考えると親鳥と雛は血縁関係にあるわけだから近い。で、遺伝子としては自らを残すためには先の長い若い雛を残すように行動すべきである。そのように行動するように遺伝子は親鳥をコントロールしており、結果的に「利他的」な行動をとる、と説明する。 
 ドーキンスが説明の中で常に慎重に排除するよう心掛けているのが、遺伝子が意志を持っているかのように考える、ということだ。これは読む前の利己的な遺伝子についての考え方では私は排除していなかった考え方だった。つまり遺伝子が意志を持って、われわれ「乗り物」をコントロールし、支配下に置いている、という考え方で、「結局俺たちなんて遺伝子の乗り物に過ぎないぜ」みたいなことを飲み会の席で口にしたような気もする(どんな飲み会なのか)。だが、先の例で言っても、偽傷ディスプレイをおこなう遺伝子が自然淘汰の結果として生き残ったものであって、意識を持つこびとみたいな遺伝子がロボットのような個体を操作しているという考え方は転倒しているのだ。読んでいても何度もその考えに落ち込み、その都度ドーキンスから注意を受けた。
 
 「ミーム」という考え方を説明する部分がもっとも生き生き書かれており、それは直接生物学から反駁されない部分なのであまり気にせず書けたのだろう。ミームとは、人間の文化的な営み、言語や芸術やその他諸々の事象が、「模倣」という行為により広がっていき脈々と続いていく、ということを遺伝子のアナロジーにより説明するものでこれはちょっとおもしろい。

 ゲーム理論がこの本の中では再三再四出てくる。というよりもゲーム理論によって遺伝子の優位性を説明している本といってもいい。有名な「囚人のジレンマ」などなどだが、こちらについては別に勉強するともっと面白そうである。

 結局、利己的な遺伝子というのはあくまでもひとつの見方なのであって、あまりずっぽりはまりこむのもどうかとは思うが、視点を完全に変えるというおもしろさを味あわせてくれる。この視点から例えば小説などを批評するとけっこうおもしろいものになるのではないか、と思われた。あと、本が重いので腕が疲れました。

 
2007年04月17日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『フィッシャーキング』テリー・ギリアム監督
 疲れのせいか非常に精神的に落ち込んでいて、どうしたものかと考えて、DVDレコーダーに録りだめてある映画を見ることにした。考えてみると、ずうっと映画を見ていない。見ようと思いつつ、何となく億劫で見ずにずるずる来てしまったのだ。で、なぜこの映画を選んだかというと、DVDにダビングするには微妙に長くて(ダビングできないことはないのだが、ちょっとめんどくさい)、とりあえず見てしまえば消去できるな、という考えで。
 結果的にこの映画を選んだのは成功でもあり、失敗でもあった。成功だったのは精神的な落ち込みから脱するには最高の選択だったから。失敗だったのは結局簡単にこの映画を消去することができなくなったから。
 とにかく作り手がハードルを上げているというのがすばらしいところだ。DJである自分の発言を真に受けた者のせいで7名(だったか)が死んでしまう通り魔的乱射事件が起きて、ショックでそのDJが休業してしまう。だらだらした生活。まずここからの復帰がひとつのハードルだが、かれが出会った浮浪者がその乱射事件で妻を亡くして精神的におかしくなってしまったと聞いてしまう。これで更にハードルが上がる。自分が直接罪を犯したならば、罪を償う方法はありそうだ(実際にそれが償えるのかどうかは別として)。しかしこの状況で主人公のDJは自分を含めてこの状況から抜け出ることができるのか。ファンタジーというと簡単だけど、課せられた課題の高さを超えていこうとする作り手の気合が良い。
2007年04月10日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | 映画 | Top↑ |
『会社法入門』神田秀樹
 仕事の関係で読んでおかなくてはいけなかった本で、いままで読んでいたものとはずいぶん傾向が違う本だけど、とりあえず書き込んでおきます。
 内容はかなりわかりやすく書かれていると思う。仕事の関係で(とさっきも言ったが)会社の経理やらについて考えることがあり、その一環として2005年に制定された会社法についてもひととおり頭に入れておく必要があった。
 項目をコンパクトにまとめつつ、理解しやすく書かれているのだが、一方で著者は単純な教科書的な書きっぷりはしないで(新書というメディアという点もあるのだろうが)、微妙におもしろがって書いたりしている。そのゆるいところがちょっとよい。例えば、この会社法というのは全979条(成文時に1条減っていて実際には978条しかない)という膨大なものなのだが、その成立の過程はいろいろ複雑で、その部分の象徴的なものとして参議院法務委員会の審議の議事録を抜粋して掲載している。
 民主党の簗瀬進議員が時の法務大臣の南野(のうの)智恵子とやり合っている部分で、要は簗瀬議員はこんな膨大な法律を議会が短時間で審査することができるんですか?と問うているのに対して例えばこんな感じ。

 簗瀬議員 (中略)関係資料として出されたもののページ数を足してみますと7840ページなんですね。大臣、これお目通しはどの程度なさったんでしょうか。
 法務大臣 全部読ませていただいたというと、うそになります。でも、要所、要点についてはいろいろレクチャーも受け、関心を持って聞かせていただきました。

 ここだけ読んでもかなり面白いのだが、この議事録抜粋のあと筆者はこんなことしか言わない。

「なぜ、いま新会社法なのか」と問われれば、すでに述べたとおりの背景の中で偶然的な(そして複雑な?)事情が重なった歴史の所産であるというのが私の実感である。(p41)

 いろいろ著者も不満なんだろうなあ、だけどできちゃったものはしょうがない、それを最善としてやっていくしかない、というニュアンスが若干かいま見えるようではなかろうか(著者はこれだけの法律を作り上げた法務省の担当官には敬意を表している。念のため)。つまり時間をかければきっともっといい法律はできるのかもしれない。しかし株式会社という形態が数十年前から見てグローバル化やらIT化やらで明らかに変化してしまっている中で、拙速と言われても変えなければならない、という部分は法学者としてはやむを得ない、と考えるしかないのだろう。変えなければ株主が保護されないし、株主が保護されなければ会社に資金を出そうとする者はいなくなるし、資金を出す者がいなくなるとひいては日本経済の発展にたどりつかないんだから、ということなんだろう。
「あとがき」ではこんな言葉が出てくる。
 
 ただ一方で、これは大学で授業をしてみての感想であるが、今回の会社法の条文を日本語として読むことだけでは、実際のイメージをつかむのは難しい上、その内容もよく理解できないと思われることである。会社法の条文を読み始めてしばらくして、私には数学の歴史が思い浮かんだ。ゼロの発見にせよ、あるいは17世紀の微積分革命にせよ、それは言語(数学言語)の革命でもあった。新しい会社法の条文は、21世紀にふさわしいルールを書ききろうとしたときの日本語という言語自体の限界を示しているように思う。

 つまり、従来の日本語(特に法律の文章というのは厳格だから新しい表現方法などは使いづらそうだ)で、新しい会社制度、先ほど言ったグローバル化やらIT化についてを言葉にして行くという作業はかなり難しい作業であり、むしろどだい無理な作業なのだと言ってもいいのかもしれない。これってウィトゲンシュタインの言っていることととても似ているように思ったのだけれど。
2007年04月09日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『脳と仮想』茂木健一郎
 池谷裕二の本のように、脳と身体と心についての新しい知見が書かれている本だと思ったのだが、むしろ哲学的なエッセイだった。ここのところずっと読んでいる本は、考えてみると「心」とか「他人」「他者」についてのもので、この本も同じように他者とどのように分かり合えるのか、ということを書いている。
 人間が「現実」を認知するにあたっては脳を介して理解するしかなく、あらゆるインターフェイスを通して接触する現実は「物そのもの」を認識することはできず、つまりはテレビゲームや自らの創造物と同じ「仮想」にすぎない。そして他人というものも当然自分から断絶しているものであって、他人とコミュニケーションができる、ということはひとつの幻想にすぎないけど、それがなければ人は生きていけない、と言う。
 いままで読んできた本の再確認という意味合いが強い本だった。
 キアロスタミの映画を引き合いに出して、
 
 それは、私たちという生身の人間が、仮想の世界に入り、やがて現実の世界に戻っていく、その行き来にこそ、もっとも興奮すべき可能性が秘められているのだということである。(p147)

 という指摘は共感できるもので、つまりは現実を見ろ、ゲームなんかしてるんじゃないといういかにも正しそうな意見に対して、仮想の世界の重要性(というより仮想の世界しか認識できないという事実)を直視していこうとするのだ。
 あとは著者がいろいろな文学、音楽などに通じているので、刺激される部分があり、以下のようなことを思った。
・小林秀雄の講演のCDを欲しくなったということ
・三木成夫という生物学者について知りたくなったこと
・大昔に読んだカミュの『シシュポスの神話』をもう一度読もうと思ったこと
・ワーグナーのオペラを見たくなったこと
・『源氏物語』もいつか読まなくちゃいけないな、と思ったこと
 刺激的で、エッセイとしては上質なものだ。
2007年04月07日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『いま私たちが考えるべきこと』橋本治
 橋本治は私にとっては信用すべき作家(評論家)のひとりであって、基本的に文庫、新書が出たら読むようにしている。この本も新潮文庫から出ていてすぐ買って読んだ。
 で、信用すべきと言っても決して橋本治は何かをわかりやすく解釈したり説明したりしてくれない。というよりも、むしろわかりやすそうなことをあえて難しくしてしまう。文章は平明だ。平明を通り過ぎて語り口調となっていて読みやすい。読みやすいはずなんだがいつのまにかわけが分からなくなる。一般的な評論が言いたいこと=テーマがあり、そこに向かって論理的な文章を積み重ねていくものとすると、橋本治の評論は結果的に全文が言いたいことになっている。つまり決して何かを説明するために文章を書いているわけではなくて、むしろ自分の思考を文章で公開しているみたいなのだ。私たちがなにかを考えているときその過程では当然矛盾があり、行ったり戻ったりがあり、脇道があり、どうでもいいことまで思いついたりする。それがそのまま文章にされているみたいで、そうした場合読んでいる人はどう思うか。評論に「答え」を求める者(私もそうなんですが)はすこしいらいらする。なんだよ、さっき言ってたことと違うじゃん、とか、何でいきなりそんなことを言い出すのだ、全く関係ないぜ、とか。だけどそのうちそれが橋本治のひとつの策略だということに気づきはじめて、最後にはこう言い出す。

「思想」の側も錯覚しているし、「思想を必要とする人」も錯覚しているが、「近代の思想」というものはない。あるのは、「前近代の中に生まれた、近代を用意する思想」だけである。「思想に考えてもらう」が終われば「近代」なんだから、近代は思想を生まないのである。その代わり、近代は「みんなが自分の頭で考える」なのである。だから、こんなにも「考える、考える、考える・・・・・・」ばかりが続いて、「答」というものが一向に出てこない、このややこしい本があるのである。(p248)

 誰かが答を出してくれるというのは「前近代」であって、良かれ悪しかれもう昔には戻れない。いまに生きるわれわれはとにかく自分で考えようぜ、橋本治はずうっとこの本全体で見せ続けていたのだった。まあそれが答なんだけども。橋本治は昔の思想家みたいにえらそうではないが、やっぱりえらいなあ。
 ところで、ずうっと考えているこの本だが、考えている内容のひとつは「"自分のことを考えろ"と言われるとまず"自分のこと"を考える人」と「"自分のことを考えろ"と言われるとまず"他人のこと"を考える人」の二種類が世の中にいる、というのが大テーマ。これを巡ってああでもないこうでもないとずうっと考えているのだけれど、これはウィトゲンシュタインの「他者」とつながっている気がする。ふーむ。どうつながっているのか、もう少し考えないと。
2007年04月06日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』野矢茂樹
 野矢茂樹は好きな哲学者だ。文章が平易だし、いつも遊び心を持って書いている。比喩もおもしろい。『論理トレーニング101題』とか『はじめて考えるときのように』とか、何冊か読んだ。だけど、やっぱり論理学は難しい。今まで論理学の本(三浦俊彦とか)は何冊か読もうとしては、挫折した。簡単だよ、と誘い込まれるのだが、自分の頭が悪いのか、それとも論理が分からないのか。いつも途中であきらめる。そういえば、こんど読んだ本にも論理を共有しない人に論理を教えるのにはどうすればいいのか、という問題が出てくるが、結局私は論理がいつになっても分からないんだろう。で、この本も昨年、一昨年と(たぶん)二度も挫折した。だが、ウィトゲンシュタインは立ち向かわなくてはいけない壁。がんばってみた。一応最後まで線を引きつつ読んだけど、やっぱりよく分からなかったところがかなり多い(かなり、は女子高生調で)。
 ただ、前期ウィトゲンシュタインの目指していたこと、『論理哲学論考』(以下『論考』)の仕掛け、目標はわかりやすい。つまり今まで読んでいたラカンと「言語」ということでつながっている。
 
 出発点は現実世界と日常言語である。この世界を行き、この言語に熟達している者のみが、『論考』の提示する道を辿ることができる。 ゴールは思考可能性の全体を明確に見通すことである。
 そのため、日常言語を分析し、再び日常言語を構成するという往復運動を行なう。(p144)

 もっと『論考』はむずかしいというか、わけが分からないと思っていた。まだ読んだことないんだけど、アフォリズムの形式で捉えづらそうだと思っていたが、もっと明確な意図を持った本なのだなあ。ただ、上記の実際の往復運動が全くと言ってよいほど分からない。野矢さんもわかりやすく書いてくれているのに分からないんだよなあ(何度「分からない」と書いたでしょうか)。
 しかし、「『論考』の向こう」という最終章で野矢さんが語り始める。とにかくそこまでで理解したことは「思考可能性の全体を明確に見通」したうえで、その限界地点を内側から確認する、ということ。しかしその外側、つまり思考不可能な地点にいる「他者」を無視することで『論考』は成立している。それじゃだめだ、と野矢さんは言う。

 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。

 というのが『論考』の結末だが、野矢さんはこう続ける。

 いや、沈黙は何も示しはしない。私は語るだろう。ひとつの論理空間のもとで語り、他者に促され、新たな論理空間のもとでまた新たに語るだろう。そしてこの語りの変化こそが、他者の姿を示すに違いない。(中略)
 語りきれぬものは、語り続けねばならない。(p280)

 卑近な感想だけど、私自身がもっとフランクでオープンな人間になりたいと思う。引きこもるほどの根性がないので、一応社会でそれなりに振る舞っているが、自分の論理空間、というと難しいが自分の世界自体を変化させたくないという気持ちがどこかにあり、そのためにどうもうまく語り続けることができないというか、いわばモノローグな会話しかできない。しかし静的な状態では幸せな生き方はできないんだろうなあ。他者、つまり自分の理解できない人、モノたちと会話できるようになりたい。それはずっとおもっていたことだったから、野矢さんに後押しされたようでした。
 
 
2007年04月01日 | Comment:0 | TrackBack:0 | | | Top↑ |
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